皆の静止に構わずに、僕は無理矢理ハッチをこじ開ける。いつか見た赤いパイロットスーツに、おそらく被弾したときの衝撃で怪我をしたのだろう。ヘルメットは割れ、額からは血が滲み出ていた。彼は誰。そんなことを考えながら、僕は彼を無理矢理コックピットから引きずり出す。パイロットスーツごしに腕に伝わってくる温もりが気持ち悪い。ストレッチャーに彼を乗せた時、咄嗟にカガリが「シン、」と言った。
シン、と呼ばれた少年は、今だ医務室で眠っている。怪我は額の傷ひとつだけだったのだが、状態はあまりよくなかった。海に落下した際、被弾した箇所から水が浸入してきたらしい。彼は未だ目を覚まさない。
「ねえカガリ、」
「どうした?」
僕の腕にぐるぐると包帯を巻きながら、カガリは顔を上げる。少し大げさじゃないかと思ったが、だが折角カガリが巻いてくれたのだから文句は言えない。
「彼の目は、どんな色をしているのかな」
僕がそう問うと、カガリは首を傾げ。
「目?そんなもん、知ってどうするんだよ」
と言った。全くだ。何故こんなことを尋ねたのか、僕自身もわからない。僕が黙って答えずにいると
「…たしか、赤かったはずだぞ」
とカガリは言った。
「ありがとう」
僕がお礼を言うと、カガリは照れたように顔を真っ赤にしながら、「ほら、出来たぞ!」と言って包帯の上をばちんと叩いた。少し痛かった。
カガリがインパルスという名だと教えてくれた、この彼の機体に入り込む。マードックさんに頼んでこっそりと修理をしてもらっていた。かたかたとキーボードを操作しシステムを覗く。どこかストライクに似ているこの機体は、中にいるとほんの少しだけ安心する。フリーダムはまだ修繕されていない。
「キラー!!!」
下から僕の名前を叫ぶ声が聞こえ、僕は顔を出す。そこにいたのはカガリだった。
「どうしたの?」
コックピットから降りながら、よくここがわかったね、と言うと、カガリはマードックさんに聞いたと言い。
「そんなことより、シンが目を覚ましたぞ」
ばんばんと肩を叩かれ、僕は勢いあまって咳き込む。だがカガリはそんなことお構いなしに
「ほら、お前だってあんなに心配してたんだ。早く会いにいくぞ!」
そう言って、僕の手を引く。けれど、僕の足は硬直したかのように動かない。
「…キラ?」
歩き出さない僕を不審に思ってか、カガリが立ち止まり振り替える。
「どうした?行かないのか?」
「…ごめん、先行ってて」
僕はそう言うと、カガリの手をそっとはずし、インパルスとは反対の方向へ歩いた。途中振り返ると、心配そうな顔でカガリがこちらを見ている。「あとで行くから」そう言って微笑むと、カガリは「そうか!」と言って出て行った。
ぼろぼろになったフリーダムのまわりには誰もいない。直すならインパルスが先だ、という僕のわがままを、マードックさんがきいてくれたからだ。コックピットの中で僕は考える。どうしてカガリと一緒に行かなかったのだろう。頭の中をよぎるのは、先日カガリに聞いた話。
『あいつ、2年前の戦争で家族を亡くしたらしい』
あの大戦で家族を失った者など、彼だけでなくほかにもたくさんいるはずだ。それなのに彼が気になってしまうのは多分、彼の家族が死んだ理由を僕が薄々感づいてるから。
そっと扉を開く。時間帯は深夜、だけど、この艦は今海の底にいるので時間的感覚はない。そっと医務室の扉を開くと、明りは消えており静かな寝息だけが聞こえてきた。
医務室にあるベッドは2つ。その空いている方に僕は腰を下ろす。反対側のベッドには、シンという名の少年が静かに眠っていた。
額に巻かれた包帯が痛々しい。目を覚ました、ということはおそらくもう大丈夫なはずだ。額の傷も、血はたくさん出ていたが傷自体はそれほど深いものではなかったはずだから。それはとても喜ばしいことなのに、何故だろう。僕は素直に喜ぶことはできなかった。
「…ぃ、おい、あんた、」
遠くで誰かが呼んでいる声がする。室内の空調設備は整ってるはずなのに、僕はとても汗をかいているような気がした。頭がガンガンする。ゆっくりと起き上がると、赤い瞳と目が合った。
「…え、」
額に包帯を巻き、おそらくザフトのものと思われる水色のTシャツを着ている、赤い瞳の少年。黒い髪がふわふわとういていて、猫みたいだな、と思う。
「あんた、大丈夫か?すごいうなされてたけど、」
そういわれて僕はようやく意識を取り戻す。はっとあたりを見回すと、そこは医務室のベッドの上で。おそらくあの後眠ってしまったのだろう。彼はベッドから出、僕がいるベッドに片膝をつくようにして乗り上げている。僕は袖口で額の汗を拭う。ぶるっと急に寒気が走り、くしゅん、とくしゃみが出た。
「…風邪ひいてんじゃねーの?」
そう言って彼は僕の額に手を乗せる。冷たくて心地良い。そして、はっと僕は思い出したように彼の手を掴んだ。彼は驚いたように僕の方を見る。
「きみ、怪我は、」
腕にも包帯が巻かれている。それに、短時間だが海の中で無呼吸状態になっていたのだ。目を覚ましたとはいえ、未だ安心することはできない。
「駄目だよ勝手に起き上がっちゃ!まだ寝てないと、」
そう言って彼の腕を取り無理矢理向こうのベッドに押し返す。頭が痛くてどうにかなりそうだった。彼はおそらく軍人で、僕なんかの力じゃあ到底敵わないだろうけど。彼は僕がそう言うと、大人しくベッドに戻る。はあ、と溜息を吐いて、僕はまたベッドに寝転がった。早くこの部屋から出なければ。そう思うけれど、体が言うことをきいてくれない。ふと彼の方に顔を向けると、彼がじっと僕の方を見ていた。その赤い瞳が嫌で、僕は右腕を顔に乗せて瞳を隠す。
「…あんた、本当に風邪ひいてるんじゃないの」
彼が言う。風邪なんて、そんなことあるわけないじゃないか。だって僕は、コーディネーターなんだから。
汗の所為で濡れた服が心地悪い。部屋に戻って着替えないと。それ以前に、早く格納庫に戻って彼の機体の整備を続けなければ。立ち上がろうと起き上がる。が、ふらふらして足元がおぼつかない。きっとこの頭痛の所為だ。そう思い、一気に立ち上がるが。
「おい、あんた!」
目の前が真っ白になり、平行感覚がなくなった。わかるのは、彼が叫ぶ声だけ。
目を覚ますと、真っ白い天井が見えた。部屋に戻ってきたのだろうか。でも、部屋の天井はこれほどまでに綺麗な白ではない。顔を横に向けると、ずるりと額から何かが落ちた。何だろう、そう思って持ち上げようと思ったら。僕の手が届く前に、誰かに取り上げられてしまった。
「あんたは寝てろよ」
その声を聞いて、僕ははっと起き上がる。思ったとおり、そこには彼がいて、洗面器に入った氷水でタオルをぬらしていた。
「寝てろっていったのに、」
そう言うと彼は力ずくて僕をベッドに寝かせて、額に冷たいタオルを乗せた。ひんやりとしていて心地よい。
「僕、なんで、」
状況が把握できずに、呟く。確か彼と会話していて、…そこから先が思い出せない。それに、ちらりと彼を見てみれば、額と腕に巻かれていた包帯はなくなっている。一体何がどうなっているのだろうか。
「…あんた、覚えてないの?」
反対側のベッドに胡坐を組んで座り、彼が言う。彼の腕に包帯は無いが、かわりに鎖で繋いだ手錠がはめられていた。それを煩わしく思うが、彼はザフト軍の捕虜なのだから当然である。
「倒れたんだよ。風邪だってさ」
情けなくて思わず目を閉じた。こんなときに風邪をひいてしまうなんて。はあ、と大きく溜息を吐く。
「…キミ、怪我は」
「そんなもん、とっくの昔に治ったよ」
とっくの昔?意味がわからなくて、おもわず体を起こしかけたが、また彼によって無理矢理寝かされてしまった。だから寝てろって言っただろ!と何故か僕が怒られてしまう。
「とっくの昔って、」
僕がそう言うと、彼はああ、と思い出したように言う。
「だってあんた、5日くらいずっと意識不明だったんだよ。熱は下がらないわうなされてるわうるさい奴等が来るわで大変だったんだぞ」
「5日も、」
ああ、もう僕はどうしようもなくダメな人間だ。こんな時期に風邪を引いたばかりか、5日間も眠っていたなんて。今は頭痛も消えているが、少し寒気がする。まだ完全に治ったわけではないのだろう。けれど、こんなところで眠っているわけにはいかない。
僕が起き上がろうとすると、やはり彼が止めに来た。けれど僕は静止する彼の手を押しのけて、壁に手をつきながら立ち上がる。眩暈はしない。ならば大丈夫だろう。
「あんた、寝てなきゃだめだって言っただろ!」
彼が怒鳴る。何故彼は怒っているのだろう。彼の手錠はベッドに繋がれているので、こちらまで来ることが出来ない。
「キミ、知らないの?」
扉を出る直前で、僕は言う。彼は何が、と首をかしげた。おそらく彼は、聞かされていないのだろう。僕のことも、何も。だからこんな僕にも彼は親切にしてくれているんだ。僕が何も言わないからか、もう一度彼が「何がだよ」と尋ねる。僕は振り返ることなく
「キミと戦った、フリーダムのパイロットは僕だよ」
え、と息を呑む声が聞こえる。やはり知らなかったのだろう。きっとカガリが口止めをしてくれていたに違いない。彼が何も言わないことを良いことに、僕はそのまま部屋を出た。
格納庫に行くと、もう既にインパルスの整備は完了しており、マードックさん達はフリーダムの補修に取り掛かっているところだった。僕が現れたことに最初はとても驚いていたが、僕が「もう大丈夫ですから」というと、そうかそうかと笑ってくれた。
それからすぐにカガリが来て、凄く心配したんだからな、と怒られた。カガリに話を聞いてみると、彼がこの艦に来てからはザフト側には殆ど動きがないらしい。それを聞いて安心した。
それから1週間が経つ。ザフト側にも相変わらず動きはなく、折角だからと皆で地上に上がることになった。補給は行っているが、それ以外の個人的な買い物が出来る機会など、これを逃せばきっとないだろうから。殆ど人の残っていない艦内を、僕は一人で歩いていた。食堂に辿り着くが、そこにいたのは整備士数人だけで、殆どの者は地上に出払ってしまっている。僕はふと、一人分の食事が残されていることに気づく。
「あの、これは…」
コックに尋ねる。すると
「ああ、それは捕虜の分だよ。いつもは嬢ちゃんが持ってってくれてるんだけどなぁ」
嬢ちゃんというのはおそらくカガリのことだろう。カガリってば、こんな大事なものを忘れて買い物に行ってしまったのか。時計を見るともう2時をまわったところだ。どうしようか、考えながら、食堂内を見回す。が、皆目が合う前にそそくさと食堂から出て行ってしまった。やはり鎖で繋がれてるとはいえ、彼はザフトのコーディネーターだからだろうか。もう彼と接触してはいけないと思っていたけれど、これは仕方がない。そう自分に言い聞かせて、僕はトレーを持った。
寝ているといいな。そう思いながら扉を開く。が、残念ながら彼は起きていて。ベッドに寝転がって向こう側を見ていた。
「おせーよ」
彼は僕が来たことに気づいていないのだろう。
「うん、ごめんね」
僕がそう言うと、彼は驚いたような顔でこちらを見た。
「…なんで、あんた、」
「カガリ、今地上に出てるから、」
そう言って、食事のトレーを彼に渡す。彼は何も言わずにトレーを受け取ると、無言で食べ始めた。僕は部屋から出て行った方が良いのか、と思い踵を返すが、彼が「食い終わるまでそこにいろよ」と言うので、反対側のベッドに腰をかけた。
彼が何故僕を呼び止めたのか、わからない。僕に何か用があるのだろうか。それとも、僕がフリーダムのパイロットだと知って、何か文句を言いたいのかもしれない。もしかしたら、特にそんな深い意味はなく、ただ単に2度も僕が部屋に入ってくるのが嫌だから、そんな理由かもしれない。僕は何も言わずに、俯いて自分の膝を見た。沈黙が痛い。彼の要求なんか聞かずに、早く部屋を出てしまえばよかった、と思う。
「なあ、」
突然話しかけられて、おもわず肩がびくりと揺れた。顔を上げると、あの赤い瞳がこちらを見ている。
「あんた、風邪はもう治ったのか」
彼が言い難そうにそう尋ねた。驚いた。彼は、僕の心配をしているのだろうか。どこまで優しい子供なんだろう。
「治ってるよ」
僕がそう言うと、彼はそっか、と言ってまた食事を始めた。
「もう1週間もたってるんだよ」
そう言って笑うと、彼は
「だってあんた、全然この部屋にこなかったから、」
「それは、」
だってそんなの、行けるわけないじゃないか。僕は彼に、酷い怪我を負わせてしまった。それだけじゃない。彼は多分知らないのだ。彼の家族を殺したMSに乗っていたのが、僕だってことを。
2年前のオーブ戦で、彼の家族は亡くなったとカガリが言っていた。MS同士の戦いに巻き込まれた、と。カガリは地球軍のMSだと言ってくれたが、そんな確証などない。
「あんたは、なんで戦うんだ?どうして戦場を混乱させる?あんたたちは2年前、戦争が嫌で戦ったんじゃないのか?この戦争は、あんたらの所為で激化してるんじゃないのか?」
彼の赤い瞳がまっすぐに僕を見る。僕が戦う理由?そんなこと、決まってる。僕が戦う理由、それは、僕が戦うことしかできないからだよ。力だけが僕の全てじゃない。けれど、そんなことを言ったって僕が途方も無い力を持っているのは変えられない事実なのだ。彼は何も言わない僕を、睨みつけるように見ている。何故そんなことを聞くのだろう。戦争を止めたいから?力が欲しいから?それとも
「僕が怖いかい?シンアスカ」
あかい瞳がぐらりと揺れた。圧倒的な力を前に、彼は何を思っているのだろう。僕が憎いと思っているのだろうか。それとも、本当に僕を恐れてしまっているのか。でもね、シン。僕が一番怖いのは、キミなんだよ。
「僕はキミが怖いよ」
僕はそう言って、食事の終わったトレーを持って立ち上がる。部屋を出るときもう一度彼の方を見たが、彼は何も言わなかった。
空いたトレーを食堂に戻し、僕は格納庫に急ぐ。数人の整備士に挨拶をして、フリーダムのコックピットに入った。自室は広すぎて、辛い。
今ここにカガリ達がいなくて本当に良かった。今の僕は、きちんと笑える自信がない。
戦闘終了後、パイロット専用の控え室は今は僕しか使っていない。誰もいないことを確認すると、投げ捨てるようにヘルメットを床に放った。ここは無重力空間ではないので、ガンと鈍い音がなりヘルメットは床に転がる。はあ、と溜息を吐いて、備え付けてある硬い長椅子に腰掛けた。頭が痛い。
久々の戦闘。それも、彼がいない戦い。彼がいなくなっただけで、これほどまでにザフトが弱体化するとは思わなかった。あまりに歴然とした力の差に、僕は自嘲が止まらない。おかしいのは弱すぎる彼等か、強くなりすぎた彼か、それとも。
頭痛薬でももらおうかな、そう思い医務室の前に辿り着く。捕虜の彼は傷が治ったので、僕が最後に尋ねた日の夜、違う部屋に移された。それから僕は彼を訪ねていない。尋ねる理由も、ない。
医務室には誰も居らず、僕は勝手に戸棚を開いて薬を探す。全てナチュラル用のものだけど、飲めば気休め程度にはなるだろうから。ビンを開き、錠剤を適当に取り出す。ナチュラル用の摂取量の目安はあてにならないから、とりあえず大人分の量の倍くらいを取り出して、一気に飲み込んだ。
すぐに自室に戻ろうかと思ったが、戻るのが面倒だったので僕はベッドに寝転がった。以前まで彼が使用していたその場所は、今はきちんとシーツが整えられている。うとうとと瞼が重くなってきた。この部屋にはもう誰もいないから、少しくらい眠っても大丈夫だろう。ひんやりと冷たいシーツの中で、僕は意識を失った。
僕は考える。彼をザフトに帰した方が良いのだろうか。先程の戦闘で、彼がとてつもない勢いで成長しているということがわかったし、おそらく彼はまだまだ成長し続けるだろう。力を欲しがる彼は、その成長を望むかもしれない。けれど、彼が戦場に戻れば、またオーブに向かってくるというのならば、きっと彼は死んでしまう。殺すのは、僕だ。強くなりすぎた彼を僕は殺さずに止めることなど出来ないだろう。人は何故力を求めるのだろう。彼は強大な力を手にした時、何を思うんだろう。
もぞもぞと、頭上で何かが動いているような気配がして僕は目を覚ました。この部屋に時計はないので、どれくらい眠ってしまったのかわからない。うーん、と大きく両手を頭上に伸ばして伸びをすると、ぼふ、っと右手が何かにぶつかった。壁にしてはやわらかすぎるそれに、僕は顔を上げる。
「…なん、で、」
そこにいるのは、いるはずのない彼だ。彼は僕が眠っているベッドの頭上のところに座っており、ちらりと僕の方を見たが、すぐに視線を前に戻した。一体何を見ているのだろう、そう思い彼の視線を追うと、その先にあるのはテレビ画面で。
「なんでキミがこんなところに、」
僕が問いかけると、彼はこちらを向く。
「アスハのヤツにヒマだって言ったら、ここでテレビでも見てろって言われたんだよ」
彼の両手にはいつもの手錠に鎖がついており、ベッドの柱に繋がっていた。
「カガリは、」
「あんたのこと起こすなよって言ってどっか行った」
そう、と頷き僕は立ち上がる。カガリのことだから、僕が彼について何か思うところがあることをわかっているのだろう。だから彼をここに連れてきたのか。テレビ顔面に映る時計は20時を指していた。戦闘が終わったのがお昼過ぎだったので、僕は随分と眠ってしまっていたらしい。きっと薬の所為だろう。カガリには悪いが、僕はこれ以上彼と関わることはしない。これ以上関われば、僕は彼を手放せなくなってしまうから。僕は何も言わず扉に向かおうとした、が。ぐい、と右腕を引っ張られ、バランスを崩し倒れこむように元いたベッドに座り込んだ。
一体何、そう思い彼の顔を見る。いつもの鋭く赤い瞳が僕を見ている。
「オレは、あんたなんて怖くない」
ぎゅっと僕を掴む腕に力が篭る。彼の言葉が嘘か本当かはわからない。
「そう」
僕は言って彼の腕を外すとまた立ち上がった。これ以上彼を知ってはいけない。これ以上彼に知られるわけにはいかない。傲慢な自分に吐き気がする。止まらない頭痛の原因はそれだろうか。
「逃げるなよ」
歩き出した僕に向かって彼が言う。僕は立ち止まった。言ったじゃないか、僕は君が怖いんだって。僕は彼を殺せる。そして彼はおそらく、僕を殺せる人間だ。
「なんでいっつも逃げるんだよ!いつもいつも、勝手なことばっか言ってすぐに逃げる!」
僕は何も言わない。彼の言葉は正しい。いつだって僕は逃げてばかりだ。
「いっつも泣きそうな顔してるくせに、あんたは逃げてばかりだ。だからオレは、あんたなんて怖くない」
彼の赤い瞳を見る。揺るぎのないその赤色が、僕を睨みつけていた。
「なあ、」
彼が呼ぶ。僕は耐えられずに部屋を出た。
扉を開くと、彼が驚いたような顔で、僕が部屋を出たときの体勢のままこちらを見ていた。僕が勝手に部屋を出て行ったことを怒っているのか、ずっとこちらを睨みつけている。ぱちり、と僕がテレビの電源を切ると、おい、と怒られる。けれど僕はそんな声に構わずに彼の前に立ち、彼の両手を掴んだ。
「…何、」
彼の問いには答えずに、僕はポケットから取り出した鍵で彼の手錠を外す。手首に少し赤い跡が残ってしまい、僕はそれを少し悲しく思う。彼は僕の行動がよくわからない、といった顔でこちらを見ていた。
外した手錠をベッドに投げ捨て、僕は彼の手を掴んで引く。促されるままに立ち上がった彼の腕をそのまま掴んで引っ張った。
「なあ、何やってんだよあんた、」
彼が困ったように言う。けれど僕は聞こえないふりをして廊下を進む。途中数人のクルーとすれ違い不思議そうな顔をしていたけれど、そんなことどうでも良かった。最初うるさく何か尋ねてきた彼も、僕から答えがもらえないと知ったからか、いつの間にか黙り込んでいた。
もくもくと進み、MSの格納庫まで辿り着く。マードックさんに挨拶をし、そのまま彼をフリーダムのコックピットに押し込み、僕も一緒に中に乗り込んだ。ハッチを閉じる。フリーダムを起動させメインの画面が写ると、彼は物珍しそうにコックピットの中を眺めていた。
「ちゃんと掴まって」
そう言うと同時に、僕はフリーダムを発進させる。ちゃんと掴まっていなかった彼がバランスを崩して転んだけれど、僕は気にせずスピードを上げた。
海から上がり、地上に出る。もう陽は落ちていて辺りは薄暗い。彼をコックピットから下ろすと、彼は戸惑ったように僕の方を見ている。
「君を帰してあげる」
僕がそう言うと、彼は驚きの声を上げる。
「なんで、だって今オレを返したらあんたら、」
「君の機体はそこにある。パイロットスーツは破けてたから捨てちゃったけど…機体のほうはちゃんと補修して、整備しておいたから」
じゃあね、と言い、僕は踵を返した。早くこの場を離れたい。けれど、またいつぞやと同じく彼に腕を引かれ、前に進めない。僕が振り向かないでいると、彼は僕の右腕を引っ張って、無理矢理僕を振り向かせた。
「なあ、どうなってんだよ、意味わかんない」
彼が僕を見て言う。けれど僕は彼を見ることが出来ない。彼はいつも尋ねてばかりだ。そして僕は、いつもそれに答えることが出来ない。
「君をミネルバに返してあげる、そう言ったんだよ」
「なんでいきなりそんな話になってんだよ!」
彼が僕の方を掴んで揺する。ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。雨が降ってきたみたいだ。
「オレのことが嫌いだから?だからオレを帰すのか?なあ、」
「そうだよ」
僕がそう言うと、彼は驚いたように一瞬黙ったが、それからすぐに「そうか」と言った。僕を掴んでいた手が、熱が離れていく。これでいいんだ。彼の赤く濡れた瞳で見つめられて、僕は動くことが出来ない。ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。彼のてのひらが僕の頬に触れた。暖かい。彼の瞳が戸惑いで揺れる。
「なんであんたが泣くんだよ」
僕は泣いているのだろうか。僕は最悪だ。ぽたりぽたりと雫が落ちて、止まらない。彼は知らないのだ。僕が殺してきたひとたちの数を。僕の所為で死んでいったものたちの数を。なのに僕は、今彼に触れられていることが嬉しくてたまらない。
「きみが僕を知らなくてよかった」
きみが何もしらなくてよかった。
「僕はきみを知りたくなかったよ」
そうすれば、こんなに苦しむことはなかったのに。
ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。冷たい涙に触れないでほしい。彼の手がそっと、頬の雫を拭い去る。残されたのは、生ぬるい雨、そして暗闇。