目の前で静かに涙を流す彼を抱きしめたいけれど、オレにはどうすることも出来なかった。だからそっと彼の頬に伝う涙を拭う。彼が悲しそうな顔をして、オレの顔を見た。
キラ、と、名前を呼べたら。けれど彼は知らないのだ。オレが全て知っているということを。
「ごめんね」
最初に聞いた彼の言葉は謝罪だった。直後襲う衝撃に、オレは意識を失う。思考が朦朧としていて、よく思い出せない。次に覚えているのは騒がしい格納庫と、外側から無理矢理ハッチを開く音。そして、霞む視線の先に見た青色のパイロットスーツと紫色の瞳。細い腕でオレを必死にハッチの外に出そうとしている。オレが覚えているのは、その手がとても冷たかったということだけだ。
目を覚ますとそこにいたのはオーブ代表のアスハで、だけど彼女は以前会ったときとはまるで別人のように生き生きしていた。アスハはずっとキラの話をしていて、そういえばミネルバにいたときも隊長はキラヤマトの話ばかりしていて、どうして彼の周りの人間はこうも彼について話したがるのだろう、と不思議だった。
早くキラに会いたかった。
彼はオレの家族を殺し、ステラを殺した。アスハや隊長から聞いた話だと、キラは2年前の戦争でもたくさんの人を殺し、そしてたくさんの仲間を失ったと言っていた。だからこそ、キラに会いたかった。たくさんのものを失ってもなお、戦場に出ようとする彼に会いたかった。
オレがキラに会えたのは、本当に突然で予想もしなかった状態だった。オレは怪我が酷く、医務室のベッドに拘束されている。医務室にはベッドが2つあり、オレが目を覚ますともうひとつのベッドの上に、倒れこむようにしてキラは眠っていた。
「おい、アンタ、」
反対側のベッドに乗り上げる。どうしてこんなところで眠っているのだろう。そう思い呼びかけるが、キラは目を覚まさない。それでもなお呼びかけ続けていると、キラはうっすらと目を開いた。
「…え、」
意識が朦朧としているらしい。ごしごしと目をこすっている。
「あんた大丈夫か?凄いうなされてたけど」
オレがそう問うと、キラはオレの顔を見て、それから驚いたように辺りを見回していた。額にたくさんの汗をかいており、キラはそれを袖口で拭うと、くしゅんとひとつくしゃみをした。
「…風邪ひいてんじゃねーの?」
そう言ってオレは手のひらをキラの額に当てる。熱い。確実に熱があるだろう。するとキラははっと思い出したようにオレの手を掴み、
「きみ、怪我は!?」
と言った。オレが驚いてきょとんとしていると。
「駄目だよ勝手に起き上がっちゃ!まだ寝てないと、」
そう言ってキラはオレを無理矢理ベッドに押し返す。彼の力は軍人として鍛えているオレには全く敵わないほどのか弱さで、オレはとても驚いた。軍人じゃない、というのは本当だったのか。オレが大人しくベッドに戻ると、キラははあ、と溜息を吐いて、まだだるそうにベッドに寝転がった。オレがじっと見ていることに気づいたのか、キラはこちらをみる。そして右手を顔に乗せて、瞳を隠してしまった。
「…あんた、本当に風邪ひいてるんじゃないの」
オレは言う。が、キラは聞こうとしなかった。するとキラは立ち上がり、ベッドの柱に掴まってのろのろと歩き出した。部屋に戻ろうとしているのだろうか。足元がふらふらして覚束ない。すると
「おい、あんた!」
突然キラが倒れる。やはり熱があるのだ。両手を拘束されているので容易ではなかったが、なんとかキラをベッドの上に乗せる。そして緊急用の呼び出しボタンを押すと、間もなくしてアスハがやってきた。
隣のベッドで眠るキラを眺める。何故医務室にいたのだろうか、という話をアスハにしたら、オレの様子を見にきてそのまま眠ってしまったのだろうと言っていた。もぞもぞと動く気配がしてキラの方を見ると、キラが目を覚ましたらしい。額に乗せていたタオルが落ちる。キラがそれを取ろうと手を伸ばすが、キラの手が届く前に、オレはそれを取り上げた。
「あんたは寝てろよ」
そう言って、洗面器に入った氷水でタオルを塗らす。両手は相変わらず拘束されているが、手錠は前のものとは違い、両手の間が広く鎖で繋がれているため、ほぼ自由に動かすことが出来る。キラの面倒を見ることを条件に、アスハがこれに代えてくれた。
「寝てろっていったのに」
案の定起き上がっていたキラを、オレは力ずくでベッドに寝かせ、額にタオルを乗せる。
「僕、なんで、」
状況が把握出来ていないのだろう、キラは呟いた。
「…あんた、覚えてないの?」
オレは自分のベッドに胡坐を組んで座る。
「倒れたんだよ。風邪だってさ」
言うとキラは目を閉じて、大きな溜息を吐いた。
「…キミ、怪我は」
オレの包帯がなくなっていることに気づいたのだろう。キラが問う。
「そんなもん、とっくの昔に治ったよ」
オレがそう答えると、キラはまた体を起こそうと動き出す。オレは慌ててキラを寝かせる。
「寝てろっていっただろ!」
風邪が悪化すれば、逆にオレがアスハに怒られてしまうのだから。
「とっくの昔って、」
キラは言う。そうか、キラは眠っていたからわかっていないのか。
「あんた、5日間くらいずっと意識不明だったんだよ。熱は下がらないわうなされてるはうるさい奴等が来るわで大変だったんだぞ」
「5日も、」
キラはまた溜息を吐き、そして起き上がろうとする。オレは止めようと手を伸ばすが、キラはその手を押しのけた。
「あんた、寝てなきゃだめだって言っただろ!」
オレは怒鳴る。キラが歩き出してしまえば、鎖で繋がれているオレは追いかけることが出来ない。
「キミ、知らないの?」
キラが言う。オレは何が、と首をかしげた。キラは何も言わない。
「何がだよ」
オレがもう一度尋ねると、キラは振り返ることなく
「キミと戦った、フリーダムのパイロットは僕だよ」
そう言って、部屋を出た。
「…知ってるよ」
ベッドにおちた手ぬぐいを、洗面器に向かって投げつけた。
あれから1週間がたつ。この部屋にやってくるのはいつもアスハで、キラは一度もやってこなかった。そのことをアスハに尋ねると、アスハも首を傾げてわからないと言った。
ある日のこと、昼食が来るのが遅くて、オレはベッドに寝転がり不貞寝をしていた。扉を開く音がして、オレはアスハに
「おせーよ」
という。すると
「うん、ごめんね」
と、キラの声がきこえオレは驚いて起き上がった。
「…なんで、あんた、」
「カガリ、今地上にいるから」
そういえば前にそんなようなことを言っていたような気がする。オレはキラからトレーを受け取ると、何も言わずに食べ始めた。とりあえず今は飯だ。するとキラが部屋を出ようとしたので、
「食い終わるまでそこにいろよ」
と言った。そのまま帰るのかな、と思ったが、意外なことにキラはオレの言うとおり、反対側のベッドに腰をかけた。
「なあ、」
食事を半分くらい食べたところで、オレは呼びかける。びくり、とキラの肩が揺れたが、オレは構わずに言う。
「あんた、風邪はもう治ったのか」
この様子を見ればもう治っているのは当然なのだが、この沈黙に耐え切れず、オレは尋ねる。するとキラは一瞬驚いた顔をしたが、
「治ってるよ」
といった。
そっか、と言ってまた食事を始めると、キラは
「もう一週間もたってるんだよ」
と言って笑う。キラが笑うところをはじめてみた。でもそれはほんの少しで、今にも消え入りそうな笑みだ。
「だってあんた、全然この部屋にこなかったから、」
オレはこの部屋に拘束されているから、キラに会いにいくことなど出来ないし、アスハはアスハで質問にはあまり答えずに一人で喋りまくっているので、外の状況なんて全くといって良いほどわからないのだ。
「それは、」
そこから先の言葉は無い。キラは考え込むように俯いている。
「あんたはなんで戦うんだ?どうして戦場を混乱させる?あんたたちは2年前、戦争が嫌で戦ったんじゃないのか?この戦争は、あんたらの所為で激化してるんじゃないのか?」
オレはキラが何も言わないのを良いことに、一気に捲くし立てた。今聞かないと、次にいつキラに会えるかわからない。キラはオレの瞳を見る。そして
「僕が怖いかい?シンアスカ」
どきり、と心臓が跳ねた。怖いに決まってる。だけどオレはそれが嫌だから、もっとキラを知りたいのだ。
「僕はキミが怖いよ」
キラはそう言うと、トレーを持って立ち上がり、部屋を出て行った。
ぐらぐらと室内が揺れる。戦闘をしているのだろう。相手はザフトだろうか。オレのいないミネルバは今どうなっているのだろう。でも、レイやルナマリアや隊長がいるからきっとどうにかしているだろう。
振動がやんでから、暫く経つ。すると突然扉が開いた。キラか、と思い顔を上げると、やってきたのはアスハだった。
「よおシン、ヒマそうだな」
アスハは言う。オレはケンカを売られているのだろうかと思ったが、アスハの手に小さな鍵が握られていることに気づく。
「…何の用だよ」
オレが問うと、
「そんなにヒマなら医務室でテレビでも見せてやるよ」
そう言ってアスハはオレの答えも聞かずにベッドに繋がれた手錠を外す。
「どういうことだよ」
オレが驚いて問うが、アスハは
「ついてくればわかる」
としか言わなかった。
医務室の扉を開く。するとそこにはキラが眠っていた。
「…なんで、」
アスハは手錠の鎖をベッドの柱に繋ぎなおす。
「戦闘で疲れてるんだろう。起こすなよ」
そう言って、去っていった。
話したいことがあった。アスハは一体どこまで知っているのだろう。キラを起こそうかと思ったが、戦闘で疲れていると聞いたので止めておいた。
テレビをつけるが、特にこれといっておもしろいことはやっていなかった。当たり前だ、今は戦時中なのだから。
「…なん、で」
声が聞こえたような気がした。
「なんでキミがこんなところに、」
キラが起きたのだろう。オレはキラの方を向き
「アスハのヤツにヒマだって言ったら、ここでテレビでも見てろって言われたんだよ」
と言った。嘘ではない。キラも薄々アスハの思惑に気づいているのだろう、深くは尋ねてこなかった。
「カガリは」
「あんたのこと起こすなよって言ってどっか行った」
そう、と頷き、キラは立ち上がる。そして何も言わずに立ち去ろうとするから、オレは強引にキラの右腕を引っ張った。キラはバランスを崩し、倒れこむように元いたベッドに座り込む。キラが驚いたようにこちらを見る。
「オレは、あんたなんて怖くない」
ぎゅっと腕に力が篭る。嘘じゃない、これは本当の言葉だ。だがキラは
「そう」
と言ってまた立ち上がる。
「逃げるなよ」
歩き出したキラに向かって、オレは言う。キラは立ち止まった。
「なんでいっつも逃げるんだよ!いつもいつも、勝手なことばかり言ってすぐ逃げる!」
オレは一気に捲くし立てる。今ここで言わないと、次いつ言えるかわからない。哀しそうに微笑むキラを見て、戦闘後の疲れきったキラを知って、オレはキラがどうして戦場に戻るのかが、少しだけわかった気がした。
「いっつも泣きそうな顔してるくせに、あんたは逃げてばかりだ。だからオレは、あんたなんて怖くない」
オレは何も言わないキラを睨みつける。
「なあ、」
オレは叫ぶ。キラは何も言わずに部屋を出て行った。
もう会えないかもしれないな、とオレは思った。キラは知っているのだろう、キラがオレの家族を殺したこと、ステラを殺したことを。それでもキラはオレに会いにきてくれた。だからオレはキラのことをもっと知りたくて、キラが困ることを、傷つく言葉を何度も言った。こんなことなら、ずっと大人しくしていればよかったのだろうか。それとも、あんたがオレの家族を殺したと、攻め立てればよかったのだろうか。オレが怖いというキラの言葉がわからない。オレがキラを怖がっていたみたいに、キラもオレを怖いと思っているのだろうか。だったら、キラもオレを知れば、オレが怖いだなんて思わなくなるのだろうか。
扉が開いた。アスハが迎えに来たのだろうかと思い顔を上げると、そこにいたのは先程部屋を出て行ったばかりのキラだ。オレが驚いてキラの方を見ていると、キラはつけっ放しになっていたテレビの電源を切る。おい、とオレが言うが、キラはそんなことに構わずにオレの前に立ち、オレの両手を掴む。
「何」
オレは問うが、キラは何も答えない。するとポケットからアスハがいつも持っている小さな鍵を取り出して、オレの手錠を外した。キラが何をしようとしているのかが、さっぱりわからない。キラは外した手錠をベッドに投げ捨てると、オレの手を掴んで引いた。促されるままにオレは立ち上がると、キラはオレの手を掴んだまま引っ張る。
「なあ、何やってんだよあんた、」
オレは言う。キラは部屋を出ると、オレがいた部屋とは反対側の方向へオレの手を引っ張って歩いていく。途中数人のクルーとすれ違うと、彼等は不思議そうな顔をしてキラを見ていた。
「なあおい、どこ行くんだよ」
オレは問うが、キラは答えないし、こちらを見向きもしない。これ以上尋ねても無駄だと思い、オレは黙ってキラの後に続いた。
黙々と進み、MSの格納庫らしきところまで辿り着く。キラは整備士の一人に挨拶をすると、そのままフリーダムのところに向かった。戸惑うオレに構わずにオレをコックピットに押し込み、キラも中に入る。キラはハッチを閉じて、フリーダムを起動させた。初めて見るフリーダムのコックピットはオレのインパルスと似ている。そういえばフリーダムはザフト製なのだった。
「ちゃんと掴まって」
そう言うと同時に、キラはフリーダムを発進させる。オレはちゃんと掴まっていなかったため、バランスを崩してひっくり返った。
キラはそのまま地上に出る。もう陽が沈んでいて、辺りは薄暗かった。コックピットから出る。オレはどうすれば良いのかわからずに、キラのほうを見た。
「きみを帰してあげるよ」
キラは哀しそうに微笑ながら言う。
「なんで、だって今オレを返したらあんたら、」
「君の機体はそこにある」
オレの言葉を遮り、キラは言う。
「パイロットスーツは破けてたから捨てちゃったけど…機体のほうはちゃんと補修して、整備しておいたから」
じゃあね、といい、キラは踵を返す。オレは必死に頭を回転させて考える。なにがなんだかわからないし、どうすればいいのかもわからないけれど、今ここでキラと分かれてはいけないということだけはわかる。
立ち去ろうとするキラの右腕を引っ張り、強引に振り向かせる。
「なあ、どうなってんだよ、意味わかんない」
オレはキラを見て言うが、キラはオレの方を見ない。
「君をミネルバに返してあげる、そう言ったんだよ」
「なんでいきなりそんな話になってんだよ!」
オレはキラの両腕を掴んで揺すった。ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。雨が降ってきたが、オレは気にせずに言う。
「オレのことが嫌いだから?だからオレの帰すのか?なあ、」
なんでもかんでも聞くのが嫌なら、オレはずっと黙ってる。憎んで欲しいなら、どこまでも憎んでやるよ。だから。
「そうだよ」
キラが言う。オレはそうか、と言い、両手の力が抜けるように、キラの腕を離した。直接的な拒絶の言葉が頭の中を反芻している。ミネルバに帰った方がいいのだろうか、そう思ったとき。ぽたり、ぽたりとキラの頬を雫が伝った。オレは思わずてのひらで頬に触れる。
「なんであんたが泣くんだよ」
オレがそう言うと、キラは驚いたような顔をする。ぽたりぽたりと涙が溢れて止まらない。オレは嫌われていないのだろうか。オレはこの手を離さずに、ずっと一緒にいてもいいのだろうか。
「きみが僕を知らなくてよかった」
オレはキラを知ってよかった。
「僕はきみを知りたくなかったよ」
キラがオレのことを知ってくれて、本当に嬉しい。
ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。暖かい涙が止め処なく溢れている。冷たい雨。暗闇を、電灯の光が明るく照らす。
「アークエンジェルに戻るぞ」
オレがそう言うと、キラは静かに頷いた。