愛惜の続き
・現代学園



虚構

「シンー、帰るわよー」

明るくよく通った声が室内に響き、僕は思わず顔をあげた。

コンピュータルームの入り口から顔を覗かせているのは赤い髪をした可愛らしい女の子、シンの彼女だ。ここからだとよく見えないけど、それなりに整った顔立ちをしているような気がする。やはり身長はシンより少し高いみたいだけど、スタイルは良いし何より足がすらりと長かった。俗に言うモデル体型というやつだろうか。なのに胸も大きくて、性格も明るくて元気そうで、まさに理想の彼女、といった感じなのに何故。何故シンはあの時あんなことをしたんだろう。

シンはいつものように授業が始まるギリギリにこの部屋にやってきて、いつものように退屈そうに授業を受けて、今は提出するプリントがまだ出来上がっていないらしく一生懸命鉛筆を動かしているところだった。その間シンとは一度も喋ってはいないが、それはいつものことなので何とも言い難い。シンの彼女は入り口にもたれ掛かり、ぼんやりとシンが来るのを待っていた。僕は視線をディスプレイに戻すと、明日の授業の教材を作るためキーボードに指を走らせる。


「シン、まだー?」

「あとちょっとで終わる」

ちらりと視線を室内に移すと、もうシン以外の生徒は既に帰ってしまっていた。シンは何にそんなに手こずっているのかわからないが、一生懸命頭を抱えてプリントを睨み付けている。

「…どうしても出来ないなら、提出期限伸ばしてもいいけど、」

僕が横から口を挟むと、シンは少しだけ驚いた顔をしたがすぐに「もうすぐできる」とだけ言った。僕はシンに自然に話し掛けられた自分に驚きつつも、「そう」と頷きまた視線をディスプレイに戻す。

それから数分後、漸くシンは立ち上がるとプリントを持ってこちらにやってきた。僕は少しだけどきりとしたが、しかしシンはプリントを机の上に乗せると何も言わずに席に戻りカバンを手にする。

「せんせーさよーならー」

シンがそう言って教室を出ると、遠くで「ちゃんと挨拶しなさいよ」と咎める女の子の声が聞こえた。話声はだんだんと遠ざかり、そしてそのうち消えてしまう。

「さようなら」

僕の声も、かたかたと音をたてるキーボードの音に呑まれて消えていった。



「…ラ、キラ、聞いてるのか?」

「え?」

はっと顔を上げると、怪訝そうな表情でこちらを見ているアスランと目が合った。アスランはコーヒーの入った紙コップを片手にため息を吐き言う。

「キラがわがまま言うからファーストフードにしたのに…やはり以前行ったあのレストランの方が、」

「あんな普段着じゃあ入れないようなレストラン、緊張しちゃって何も咽を通らないよ」

「じゃあどうしたんだ?学校で何かあったのか?」

心配そうに訪ねてくるアスランに、僕は何も言わず微笑みだけを返した。アスランは優しい。安月給の僕を週に1度は食事に連れて行ってくれるし(もちろんアスランの奢り)、僕が何も言わなくても、彼は深く追求しないでいてくれる。

「ちょっと、授業の進め方について考えてただけだよ。どうすればアスランみたいに生徒たちの人気者になれるのかなって思って」

「何言ってるんだキラは」

照れたように笑うアスランを見て、僕もくすりと吹き出した。

アスランとは、家が近所の幼馴染みだ。小学校の高学年の時に僕は引っ越しをしてしまったけれど、アスランとは高校までずっと同じ学校で育った。アスランはいつも要領の悪い僕の面倒を見てくれて、困ったときはいつでも何も言わずに手を貸してくれた。高校を卒業してからは主にアスランが忙しくなってしまって殆ど会うことはなかったけれど、2年後に出会った彼は以前と変らず僕に接してくれている。それを嬉しいと思う反面、ほんの少しだけ申し訳なかった。アスランはあの時のまま変らないのに、僕はたった2年でかなり変ってしまった。高校の頃はいつもアスランと一緒にいたから彼女なんていなかったけど、卒業してからは結構いろんな女性と手当たり次第遊んでしまったこともある。もちろんアスランはそんなこと全く知らなくて、今も僕はずっと昔の頃の、何も知らない僕のままだと思っているのだろう。


「あら、アスラン先生じゃないですか」

突然明るい声で名前を呼ばれ、アスランは驚いて顔を上げた。いつものことだ。きっと今日もアスランの生徒だろうと思い、僕は振り返らずにコーラを啜ったのだが。

「どーも、コンバンハ」

ほんの少しだけ高めの、耳に響いて離れない声。その声を聞き僕は、驚いて振り返った。

にこにこと微笑んでいるのは、あの赤い髪の女の子で、その隣には茶色い髪の小さな女の子と、そして不機嫌そうなシンが立っていた。

「アスラン先生って、ファーストフード食べるんですね」

そういってけらけらと笑う女の子にアスランは、「不本意だがな」と言って少し微笑んだ。僕はそんなやり取りをどこか遠くに聞きながら、シンを前にただ呆然としていた。どうしてここにシンがいるのか、突然のことに脳がついていかないのだ。

「…仲良いんですか、ザラ先生と」

シンの質問に、僕はただ「うん」とだけ答えた。シンはちらりとアスランを見、そしてそれ以上何も言わなかった。

「…あの、キラ先生ですよね?」

突然名前を呼ばれ、僕は驚いて顔を上げた。

「そうだけど、」

「私、ルナマリアホークっていいます。シンからいつも先生の話聞いてて…やっぱ噂通り可愛いですね」

「か、可愛い?」

一体僕はどんな噂が流されているのだろうかと疑問に思ったが、取りあえず「ありがとう」と言っておいた。初めて近くで見るシンの彼女は、生徒の中でもかなり可愛い部類に入る顔だちをしていて、意志の強そうな目でじっとこちらを見ていた。意志の弱い僕は彼女の視線に耐えきれず、視線をアスランに移す。

「ルナマリア達はどうしてこんなところにいるんだ?」

アスランの質問に、ルナマリアが答えた。

「マユちゃん…あ、シンの妹なんですけど、彼女がハンバーガーが食べたいって言うんで、買いに来たんですよ」

そう言って彼女はマユちゃんと呼ばれた茶色い髪の少女を見た。確かに言われてみれば、シンに似ているような気がしなくもない。マユちゃんはぎゅっとシンの手を握ったまま、シンの影に隠れてしまった。

「アスラン、嫌われちゃったんじゃない?」

くすりと笑って僕が言うと、「ま、まさか」と言ってアスランは狼狽え始めて、それがおかしくて僕は更に笑いが止まらなくなってしまった。




あの日、シンとキスをした日から、およそ2週間が経つが未だに僕はシンと喋ることが出来ずにいた。というのも、僕自身が基本的に学校に来ることが少ないし、おまけにテスト期間に入ってしまい僕の授業もぱたりとなくなってしまったからだ。今回の定期テストには僕の科目は入っていないので、テストが終わるまで僕は殆ど学校と関わりがなくなってしまう。

一度だけ見かけたシンは、廊下の端の方で彼女と楽しそうに喋っていた。


「やっぱあれは何かの間違いだったってことだよね…。ね、イザーク、どう思う?」

放課後の、科学準備室で一人テスト作りをしていたイザークを捕まえて、僕は彼に訪ねる。イザークはペンを持つてをふるふると震わせて、僕を睨んだ。

「だから貴様は、何故いつもいつもオレのところに来るんだ!アスランに聞けば良いだろうアスランに!」

「…だって」

アスランは、何も知らないのだ。僕がシンと仲良くなったことも、一緒に家でゲームをしたことも、僕がいつの間にか、誰彼構わずキスを出来るようになってしまったことも、何も。

「きみは僕のことを知らないでしょう?だから、どんな話でもちゃんと聞いてくれると思って」

僕のことを知らない彼だからこそ、こんな突拍子もない話を真面目に、疑わずに聞いてくれるのだ。アスランならば端から信じてくれるはずもないし、下手したら卒倒してしまうかもしれない。

ちらりとイザークを見上げると、彼はこれでもかというほど大きなため息を吐いて、こちらを見た。

「間違いなら間違いで良いだろう。それとも何か、お前は本当はあのキスが、間違いじゃなければいいと思っているのか?」

イザークの問いかけに、僕はぴたりと動きをとめた。

「そう、なのかな」

はあ、ともう一度イザークはため息を吐いて、視線をプリントに戻した。すらすらとペンを動かすイザークに向かって、僕はほぼ独白に近いような覚束ない声で呟く。

「僕はシンのことが…好きなのかな」

「ならばシンアスカにそう伝えれば良いだろう」

「でもシンには彼女がいるよ」

「関係ないだろう、そんなことは」

「この前シンと、シンの彼女に会ったんだ。シンの妹と3人で仲良くファーストフード店にいたよ。すごい、楽しそうだった。すっかり忘れてたけど、僕もシンも男なんだよね。あのキスが間違いなんかじゃないことなんて、あるわけないのか」

「ならばさっさと忘れることだな」

ぱたん、と音がして僕は顔を上げた。カバンを閉じたイザークが、椅子から立ち上がる。

「オレは帰る。鍵を閉めるから貴様も早く出ろ」

微かに眉間に皺を寄せたイザークに睨まれて、僕は渋々立ち上がった。廊下に出て、大きなため息をひとつついたら、イザークに「鬱陶しい」と言って叩かれた。