向かい合ったテーブルの向こう側で、アスランは溜息混じりに呟いた。
「精神面…おそらくストレスが原因だろうな。いくらキラが戦場で高い戦闘能力を持っていたとしても、あいつは軍人としての教えなど何も知らないのだから」
「なにも、知らない?…それはどういう、」
彼の言っている意味がわからずに、オレは尋ねる。確かにフリーダムの動きは正規の訓練を受けたものとは思えないが、しかし現に彼は今まで、オーブ軍の一員として戦ってきたではないか。准将という肩書きもある。オレの前で立ち振る舞う彼は、軍人以外の何者でもなかったのに。
「一緒にいたオレ達ですら、その事実を忘れかけていたんだ」
自嘲気味にアスランは言った。
「…何も知らない者から見れば、キラは立派な軍人にしか見えないだろう?」
彼の言葉にオレは正直に頷く。
「…違うんですか?」
アスランは静かに首を縦に振った。
「キラははじめからずっと、ただの民間人だったんだよ。力があるから、MSを操縦できるからという理由だけで戦場に立たされ、軍に入れられ高い地位を得て…」
彼の戦いぶりをみる限り、アスランの言っていることも理解はできる。しかし、ただの民間人が何の訓練も無しにあそこまでMSを乗りこなすことが出来るのだろうか。どうしても信じられなくてアスランに尋ねたが、「色々、あったんだよ」と言って流されてしまった。
「…じゃあ、そのストレスの所為で記憶が?」
「だろうな」
アスランは頷く。確かにそういう理由なら、突然記憶がなくなったというのもまあ納得できる。積もり積もったものが、戦闘での衝撃で爆発してしまったのだろう。だが、疑問点はもう一つだけ残っていた。
「でもそれなら何故、オレのことは覚えていたんですか?今の隊長は2年前までの記憶しかないのに…」
「それは」
アスランは口を開く。が、突如鳴り響いたノックの音に、オレ達は咄嗟に口を噤んだ。
「アスラン、シンくん、子供達と皆で浜辺に行こうと思うんだけど…」
扉の向こうから、キラの控えめな声が聞こえてくる。オレ達は一瞬だけ顔を見合わせ、アスランが「わかった、今行くよ」といった。
「じゃあ玄関で待ってるね」
キラがそう言い、ぱたぱたと足音が遠ざかるのを確認すると、オレ達は溜息混じりに立ち上がった。
「ああそうだ、シン」
扉に手をかけたところで、アスランに呼び止められる。
「なんですか?」
「キラのこと、『隊長』とか『ヤマト准将』じゃなくて、名前で呼んでやってくれないか」
「な、名前、ですか?」
そういえば初めて会った頃は、オレも彼のことを名前で呼んでいた。しかし軍に入り、彼の部下となってからは名前は愚か話かけることすら儘ならないというのに。
アスランはそんなオレの心情を悟ったのか、
「今のキラは上司ではない。大丈夫さ。…頼むよ」
と言って苦笑した。
「わかり、ました」
頷くけれど、オレはまだどうすれば良いか決めきれずにいた。
久しぶりにきた浜辺は、戦後に来た時よりも大分綺麗に整備されていた。オレ達は靴を脱ぎ、ズボンの裾を膝まで捲り上げて、子供達と一緒に波の来ない浅い部分ではしゃぐ子供達を見ていた。
「うわっ」
突然の声にオレが顔を向けると、そこではキラが盛大に転んでいた。幸いそれほど濡れてはいないが、しかしズボンが砂まみれである。はしゃいでいたのは、子供達だけではなかったらしい。
「だ、大丈夫ですか?隊長」
オレが慌てて手を差し出すが、キラはそれを掴まずに不思議そうに首を傾げてこちらを見ていた。
「隊長?どうしました?」
「…あ、そっか。僕はほんとはキミの上司なんだっけ」
そう言うとキラは、少しだけ寂しそうな表情をして、それを隠すように俯きながらオレの手を取った。
「すみません…いつもの癖で」
「仕方ないよ。おかしいのは、僕のほうなんだし」
ぱんぱんとズボンについた砂を叩き落としながらキラは言う。
不自然な沈黙が流れ、オレは何か言おうと考えるがこういうときに限って頭は全く働かず、沈黙は続く。
砂を叩き終えたキラは、オレを安心させるためか自分のためか、そっと微笑んだ。しかしその笑みはやはりどこか寂しげだ。
「キラさん」
オレが名前を呼ぶと、キラは驚いたように顔を上げた。オレは構わずに続ける。
「あの、えっと…ここはアスランさんに任せて、内緒でドライブしませんか?」
幸いアスランは、子供達に手を引かれながら少し離れたところで遊んでいて、こちらの様子など構っている暇はないらしい。キラは驚いたような、信じられないというような顔でこちらを見ている。
「嫌、ですか?」
「ううん、嫌じゃない。…行こう」
一瞬なにか躊躇ったキラだったが、にこりと笑うとオレの手を引いて歩き出した。
バイクに2人乗りで、海岸沿いを走る。キラは怖いのかぎゅっとオレの背中を掴んでおり、オレは普段の隊長とのギャップにかなり驚いたが、しかし嬉しかった。
「ねえねえシンくん」
キラが唐突に言う。
「なんですか?」
「僕の記憶がまだある頃、僕とキミはどんな仲だったの?」
「え?えっと…」
まさか険悪だったなどと本人に言えるわけもなく、オレは戸惑う。しかし思いつくのは、平凡な言葉だった。
「普通、ですよ」
「そっか、普通かぁ」
「どうしてですか?」
「んー」
唸ったまま、キラの言葉が途絶える。
「キラさん?」
呼びかけるが返事はなく、オレはバイクを止めて振り返った。するとキラは素早くバイクから降りて、浜辺に向かって歩き出している。慌ててオレも後に続いた。
ようやくキラに追いつくと、キラはこちらに背を向けるように屈み込んで、砂を弄りながら言った。
「僕ね、キミと一緒に過ごした時間のこと、何も覚えていないんだ」
「…はい」
改めて本人の口から言われると、少しだけ悲しい。ここにいるのはキラの昔の仲間が殆どだから、キラはオレのことだけ何も覚えていないことになる。
「アスランの話だと、僕はオーブ軍の准将で、部下も沢山いる軍人なんだよね」
「そう、ですね」
「シンくんだって仕事が沢山あるのに、わざわざ休んでまで僕なんかのために付いていてくれるし」
「それは、」
キラが心配だから。でも本当は、心配しているだなんてそんな綺麗な言葉ではなくただ単にオレが、今ならキラに近づけるから、キラと親しくなりたかったから付きまとっているだけなのだ。
しかしキラはそんなオレの思惑になど気付く筈も無く、ぽつりぽつりと呟く。
「早く思い出さなきゃって思って、色々な病院に行ったりしてみたけど、僕ね、」
そこで一旦キラは言葉を区切った。しかしオレにはもう、その続きはわかっている。
「本当は、記憶なんて戻らなければいい?」
キラは静かに頷いた。
「キラさん…」
「せっかくシンくんやアスランが頑張ってくれてるのに、最低だよね。当の僕がこんなんじゃあ、」
「どうしてですか?」
「え?」
キラは驚いたように顔をあげ、こちらを見た。オレは構わずまた問いかける。
「どうして記憶が戻らなければ良いと、思うんですか?」
「それは」
それはオレにもわからない。けれど、キラと同様に、オレ自信も彼の記憶が戻らなければ良いと思っている。今のキラも今までのキラも、どちらも同じキラだというのにどうしても、オレには2人が同一人物だとは思えない。今のキラが本来のキラだとしたら、今までのキラは、一体何を思ってあんな態度を作っていたのだろうか。
突如ポケットから電子音が響き、オレははっと顔を上げた。いつの間にか、夕日も落ち切って辺りを暗闇が包み始めた。アスランが、突然いなくなったオレ達を呼び戻すために電話をかけてきたのだろう。
「家に、戻りますか?」
キラは静かに頷く。
その日キラの口から、質問の答えを聞くことはなかった。