03 ほんとうの事

幼い頃の思い出はない。あるのは、ずっとずっと屋敷の中に閉じ込められていたという記憶だけだ。それも後から聞かされて思い出した言葉であって、その頃の記憶もない。知っているのは、代わる代わるやってくる家庭教師と、母親と名乗る知らない女の顔。そして、時折夢に出てくる、綺麗な顔をした少年だった。それを家庭教師の誰かに話したら、昨日読んだ絵本の所為ですね、と言われた。昨日絵本を読んだかどうかは覚えていないが、それはとても綺麗な顔をしていて、それなら絵本に決まっているか、と思ったからだ。初めてキラの顔を見たとき、あの絵本の少年にそっくりだ、とシンは思った。だから知り合いかもしれないなんて思ったのだろうか。タイトルも何も覚えていないし、ストーリーだってわからない。その絵本自体もとうの昔になくしてしまって、(というよりも忘れてしまって)キラと初めて会ったとき、久々にその絵本のことを思い出したのだ。大事な絵本だったと思う。覚えてはいないけれど。ストーリーを思い出そうとしても、いくら頑張っても何も出てこなかった。キラが自分のことを好きだと言ったあの日、シンはあの絵本が帰ってきたのだと思った。だからキラだけはなくさないように、忘れないようにしようと思った。優しくして、大事にしていれば、ずっと自分の傍にあると、そう思ったのだ。


次の日も体調が悪くベッドに寝転がっていた。レイは少し前に学校に向かっている。そろそろ朝のHRが終わり、1時間目が始まるころだろう。

朝食を食べよう、と思いシンが立ち上がると同時に、ばたんと扉が開きレイが入ってきた。何か忘れ物でもしたのだろうか、とシンが驚いて見ていると、レイはじっとこちらを見て静かに言う。

「キラヤマトが、学校を辞めた」

「え?」

ばさり、と足元にあったテーブルから本が落ちた。数学の教科書だった。



ゴールデンウィークに入った。キラがいなくなった生徒会室は、少しだけ静かだ。キラが入る以前もこんな感じだったとシンは思うが、しかしどうしても静かすぎて耐えられない。

どうするんだ、とレイに問われ、シンはどうもしないと答えた。キラの決めたことならば、自分がどうこうしたところでどうしようもないと思ったからだ。キラはキラで、あの絵本とは違うのだ。絵本は大事にすれば絶対になくならないと思っていた。けれど絵本はどこかに行ってしまったし、キラもいなくなってしまった。結局何も残らない。

かたん、と音がなり、シンは顔をあげた。レイが立ち上がり、1枚のプリントを手渡す。

「キラヤマトの住所だ」

「…あいつの家、もう誰もいなかったけど」

シンはキラと別れた次の日、キラの様子が気になってあのマンションまで足を運んだ。しかしそこにキラの姿はない。管理人に尋ねたところ、引越しをしたと言われた。しかしレイは首を振る。

「マンションではない。現在の住所だ」

「なんで、」

シンは首を傾げる。何故レイがそんなことをしっているのだ。するとレイは、静かに言った。

「ザラ先生に聞いた。…本当は言ってはいけないと言われたのだが…お前とキラヤマトは、やはり知り合いのようだ」

「嘘だ、」

シンは目を見開いた。そんなはずは無い。あの日散々考えたけれど、どうしても思い出せなかった。

「だってオレ、屋敷から1歩も出してもらえなかったし、」

「…その頃のことを、覚えているのか?」

レイに問われ、シンは黙り込んだ。1歩も出してもらえないと気付いたのは、多分中学の頃だろう。それ以前のことは全く覚えていない。写真なんて残ってるわけもないし、だから家庭教師に尋ねたのだが、彼らはそろって「生まれた頃からあなたの指導をしていました」と答えたのだ。だから、それが真実だと思っていたのに。

「この連休でザラ先生も彼の元に行くらしい。いいのか?お前は行かなくて」

レイはじっとシンの顔を見た。シンがキラと付き合うと言ったとき、レイはとても驚いた。シンは今まで誰と付き合うということもなかったし、他人なんて全く興味がないと言っていたからだ。どうせいつもの気まぐれだろう、と思っていたのだが、シンはレイの想像に反しキラに優しかった。一旦寮に戻り、傘を持ってまた雨の中走り去っていく彼の顔は、初めて見るものだった。だからレイは彼の友人として、アスランの元に行きなんとかキラの住所を聞き出してきたのだ。

「オレが行ってもいいと思うか?今のオレは、あいつと何の関係もないのに」

「そんなことオレにわかるわけないだろう。自分で行って確かめてこい」

シンは暫く考え込んだ後、頷くとレイの手からプリントを受け取った。



見知らぬ場所だった。海岸沿いに、鳥が飛んでいる。初めてくるはずなのに、どこか懐かしいとシンは思った。道は1本しかなく、住所はわからないがここを進めばたどり着くだろうとシンは思った。

見知らぬ場所のはずだった。しかし、1歩足を進めるごとに、何故かこの場所に来たことがあるような気がしてきた。そして無意識のうちに、シンは海岸の方に歩き出していた。そこには、小さな子供達と、1人の女性がいた。

「…ラクス、さん」

シンがぽつりとそう問うと、ラクスは驚いたように振り返り、シンを見てにこりと微笑んだ。彼女の周りでは、小さな子供達が走り回って遊んでいる。

「お久しぶりですわね」

「オレ…この場所、」

知っている、とシンは思った。彼女の顔も、この海岸も。ラクスはにこやかに微笑んでいる。

「キラはあちらですわ。さ、行きましょう」

ラクスはシンの手を取って歩き出す。その先に見える1軒の家を見て、シンは全てを思い出した。


絵本の中の話だと思っていた。あんなつまらない家で育った自分が、こんな自由な場所にいるはずがない、と思っていたのだ。

思えばキラは、いつも一人で何かを待っていた。



「キラ、昼食の準備が出来たぞ。ラクス達が帰ってくる前に、」

「いらない」

カーテンを締め切った部屋の中で、キラは自分のベッドに突っ伏していた。大きなクッションを両手で抱えながら、後ろに立つアスランに背を向ける。

「いらないって…お前がオムライス食べたいっていうから作ったのに、」

「いらない。何もいらない。頭痛い。先生まだ?」

「さっきラクスが電話していたから…あと2時間はかかる。食事を済ませておけと言われたんだ。なんでもいいから食べてくれよ」

「いや」

ぎゅっとクッションに顔を埋めて、キラはいやいやと首を振る。頭が痛い。ずきずきと頭が痛くて止まらない。アスランが心配そうにキラに手を伸ばすが、キラはその手を拒絶した。

「嫌!触らないで!」

キラの言葉に、アスランは1歩キラから距離を取った。すっかり昔に戻ってしまった、とアスランは思う。キラは昔からこうだった。

アスランがキラとであったのは、この孤児院だった。キラはラクスの親戚が経営するこの孤児院に、生まれてすぐにやってきた。生まれてすぐに捨てられたらしい。アスランとラクスは幼い頃から知り合いで、ラクスがこの孤児院の手伝いをすることになった際、アスランもここに遊びに来るようになったのだ。

キラはいつも一人で部屋に篭っている子供だった。パソコンに興味があるらしく、アスランがそっち方面が得意ということもあり話をすることもあったが、それも数えるほどしかない。

自分は誰にも必要とされていない、と言っていたことをラクスから聞いたことがある。この孤児院にいる子供達は、殆どが戦争で親を無くした子供だった。だからキラのように、両親を知らない子供は一人もいない。キラは、自分だけにそそがれる愛情を知らない。

「ハンバーグ食べたい。ねえ、アスラン、ハンバーグ作ってよ」

「…わかったよ」

キラは基本的にわがままだ。先刻作ってくれと言われたオムライスは自分で食べるしかないだろう。アスランには、どうすることも出来なかった。

「だがもうすぐラクス達が帰ってくるぞ?向こうで食べれるのか?」

「そんなの、アスランがこっちに持ってきてくれればいいでしょ」

アスランはため息を吐くと、薄暗い部屋を出た。きっとハンバーグを持っていったところでキラはそれを食べることはないだろうとアスランは思う。けれどアスランには、キラの要望にこたえる他に出来ることなどひとつも思いつかなかった。


相当頭痛が酷いらしく、ハンバーグを作って持っていってもやはりキラがベッドから起き上がることはなかった。ラクスが医者を呼んだらしいが、しかし未だ誰も尋ねてはこない。また入院しなければならないかもしれないな、とアスランは思った。

ついには部屋に入ることも許されなくなってしまったアスランは、リビングのソファーに座りぼんやりとテレビをつける。窓の外ではもう夕日が傾き始めており、眩しい橙色の光が差し込んできた。そしてそのふもとに、小さな人影を見つける。

「…シン、」

海岸沿いを歩きながらこの建物に向かってくるのはまさしくシン本人で。アスランが驚きながら眺めていると、シンもこちらに気付いたらしくぺこりとお辞儀をした。


「…レイに聞いたのか?この場所を」

「はい」

シンは頷き、出されたお茶を啜った。このソファーも湯のみも家具も、全てが懐かしく思える。ぼんやりと室内を眺めているシンに、アスランは問う。

「…思い出した、のか?」

「はい。すみませんでした」

深々と頭を下げるシンは、かつてのシンそのもので。アスランは懐かしさと嬉しさがこみ上げて、ついくすりと笑みを零した。シンはじっとアスランの目を見て言う。

「すっかり忘れていた、というよりも、全部夢なんだと思ってました。あの屋敷では、オレはずっと屋敷で育ったことになっていたから」

「…そうか」

「また、間違えるところだった」

あの時シンは、自分だけが引き取られることになり、悲しむキラに「いつでも遊びに来るから」と言った。キラは泣きながら頷いていたが、今思えばあの言葉は、キラが本当に欲しがっていた言葉じゃあない。別れようといったキラに、シンは黙って頷いた。キラがそう望むのなら、それが一番だと思ったのだ。しかしキラが本当に欲しがっていたのはそんな優しさではない、ただ純粋に彼を欲しがるような、暴力のような強制だ。


扉を開くと、暗闇の中でもぞもぞと動く何かが見えた。家具の配置が以前と変わりないのなら、そこはベッドだ。今のキラには近寄るなといわれたが、そんなこと構わない。

「…キラ?」

シンが声をかけると、キラがびくりと震えた。

「キラ、オレだよ。…遅くなってごめん」

そっとキラに触れると、キラは慌ててその手から離れる。ベッドの隅にまで逃げ出したキラに構わずに、シンはベッドに乗り上げキラの腕を掴んだ。シンの手から逃れようと必死に抵抗するキラだが、しかしその差は歴然だ。

「いや!触らないで!はなして」

「離さない」

ぐ、と握った力を強める。キラの腕から段々と、力が抜けていった。暗くて顔はよく見えないが、泣いているのだろう。微かな嗚咽と共に、掴んだ腕が震えている。

「泣かないで、キラさん。オレはここにいるから、もう離さないから、」

「…シン?」

驚いたようにキラは顔を上げた。こんな言葉、まるで昔のシンのようだ。あの頃のシンはキラが年上だということを知っていたから、キラのことを「キラさん」と呼んでいた。キラが他の子供と喧嘩して泣いていたときは、いつもこうやって慰めてくれたのだ。

「キラさん、背、縮んだんですね。前はオレの方が小さかったのに」

「…どうして、」

「オレはずっと、あの屋敷で育ったんだとばかり思ってました。この家のことを思い出すことがあったけど、全部夢か何かだと思ってた」

キラは黙ってシンの言葉を聞いていた。今更それが嘘ではないかと少しも疑うことすらせずに、じっとシンを見る。

「一歩も屋敷から出ることが出来なかったから、家庭教師に聞いたんです。そしたら、それは昨日読んだ絵本の所為だって言って…この大きな家とか、浜辺で遊んだこととか、あの屋敷の中じゃあ想像もつかないような世界だから」

毎日毎日似たような家庭教師ばかりがやってきて、一日中勉強をしていた。食事はいつも一人でしていたし、友達と呼べる人間すらいなかった。

「でも、じゃあどうして?どうして僕と付き合おうなんていいだしたの?僕のこと、覚えてなかったのに」

「それは内緒です」

ただ純粋に欲しかったから、だなんて言えるわけがない。言えばキラは喜ぶかもしれないが、しかしシンにはそれが恥かしかった。

「もう一度、やり直しにきました」

シンは立ち上がり、ぎゅっとキラの手を握った。

「キラを迎えにきた。キラがどう思ってるかは知らないし、そんなことどうでもいい。…一緒に行こう」

「行くって、どこに」

キラはじっとシンの目を見る。暗闇で見えない、なんてことはなかった。シンの瞳は、キラが初めて彼と出会ったときと同じ、燃えるような赤だ。キラは静かに立ち上がった。



この家に連れてこられて初めて見たのは、つまらなさそうに部屋の隅からこちらを眺めていたキラだった。シンがぺこりと頭を下げると、キラは驚いたようにこちらを見て、すぐに部屋の中に逃げてしまった。

可愛い子だ、とシンは思った。

周りの子供達が、キラには関わらない方が良いと口々に言ってきたが、そんなことシンには関係なかった。無理矢理扉を開いて中に入ると、キラは驚いた顔でこちらを見た。そして、すぐに手元にあったクッションをこちらに投げてきた。ぼすん、とシンの顔面にあたりそれは床に落ちる。

クッションを拾い、シンはキラに近寄った。キラは驚いたような、怯えたような表情で次々とクッションを投げてくる。一体彼が何に怯えているのかわからない。けれどそんなキラが本当に可愛くて、名前が知りたくて、仲良くなりたくて、シンはキラに近寄った。クッションがなくなったキラは、次は枕元にあった目覚まし時計を手にした。さすがにそれは受けきれないと思い、シンは慌てて立ち止まる。

「ちょっと待って、それは無理だよ」

「じゃあ近寄らないで!」

キラは叫んだ。しかしシンはキラに近寄りたかったから、ぶんぶんと首を振る。キラはキっとシンを睨みつけた。

「きみ、誰?かってに部屋にはいらないでよ」

「ごめん。…泣かないでよ」

「泣いてないよ!」

キラの目には薄っすらと涙が浮かんでいるが、キラは首を横に振った。シンは、ゆっくりとキラに近づきベッドに乗り上げると、キラの前に座った。

「オレ、シンっていうんだ。今日ここにきた」

「ふうん」

「きみの名前は?」

「僕はキラだよ」

ごしごしと目を擦り涙を拭うと、にこりと笑った。やはり可愛い、とシンは思った。

それから何度か話すうちに、シンはキラが年上だということを知った。そして、見た目とは裏腹に、とてもわがままな性格をしているということもわかった。わからなかったのは、キラが自分以外の人間とは接しようとしないことだ。

一度キラに尋ねたことがあったが、キラは「シンには関係ない」とだけ言った。どうして怯えたような顔でそんなことを言うのだろうと思ったけれど、シンにはわからなかった。守ってあげようと、そう思った。



「でもシンには実家があるじゃない。一緒に行こうだなんて、無理に決まってるよ」

そう言ってキラは頬を膨らませた。アスランが夕食を持って来てくれたので、2人でつつきながら食べている。

その通りだ、とシンは思った。自分はまだ学生で、一緒に行くっていったって、シンが住んでいる場所は寮なのだ。

「高校卒業したらオレ、社長になるからさ。キラ雇ってやるよ。で、一緒に暮せばいい」

「社長になるって、本気で言ってんの?」

「本気だよ」

現にシンは、亡き父親の跡取りとしてこの孤児院から引き取られたのだ。父親にはシン以外に子供はいなかったから、父親と愛人との間の子であるシンが跡取りとなることになったのだ。今まで一歩も屋敷から出ずに勉強していたのもそのためなのだ。

ふうん、とキラは言うと、つまらなさそうにフォークでハンバーグをつついた。その様子を見て、シンがくすりと笑う。

「なにさ」

「別に」

しかしくすくすと笑い続けるシンに、キラの苛々は溜まる一方だ。ぐさり、とトマトにフォークを突き刺すと、勢いに負けたトマトはぐしゃぐしゃに潰れてしまった。


(この温もりだけで生きている、なんて嘘だ)

だって自分はもう、シンがいなくては生きていけないのだから。ちらりとシンを見ると、真剣な目でテレビを見ていた。テレビの中ではよくわからない動物が2匹だけで買い物をしていた。意味がわからない、とキラは思ったが、しかしシンは真面目に見ているので何もいえない。そのうちつまらなくなってシンの髪を引っ張り始める。最初はテレビに集中しているらしく気付かなかったが、次第に引っ張る力が強くなり、シンは漸くキラの方を向いた。

「僕、キミがいないと死ぬかもしれない」

唐突なキラの言葉に、シンは驚き目を丸くする。しかしシンはにこりと微笑むと、ぽんとキラの頭に手を乗せた。シンは何も言わなかった。伝わってくるのは、髪を梳くシンの手の温もりだけだ。

さらさらと髪を撫でていると、いつの間にかキラは眠ったらしい。すやすやと静かな寝息が聞こえてくる。

「そんなの、オレだって同じだよ」

シンはキラをベッドに寝かせると、そっと布団を掛けた。明日の朝は早い。早く学院に戻って、キラの入寮の手続きをしなければならないのだ。キラのベッドは狭いけれど、シンは構わず自分も中に入った。









補足が必要なくらい展開が速くなってしまった…