窓を開くと、真新しい制服に身を包んだ新入生達の姿が見えた。漸く最後の1年を迎えることが出来ると、シンはため息を吐きながら窓を閉じた。
「どうかしたのか?シン」
呼びかけられて、シンは振り返る。同じく生徒会役員であるレイが、パソコンの前で黙々と仕事を処理しながらこちらを見ずに問う。
「別に」
静かに応えもう一度ガラス越しに窓の外を覗くと、いつの間にか窓の下には下級生の女子が集まっており、目が合った瞬間きゃあきゃあと黄色い声があがったのでシンはカーテンも閉めた。突然暗くなった室内に、レイがこほんとひとつ咳払いをしたので、シンはあわてて室内の電気をつけた。
4月。シンがこの学院に入学させられてから、2年が経過した。卒業後は父の会社を継がなければならないので、初めは卒業したくないと思っていたのだが、しかし今は早く卒業したくて仕方が無かった。
退屈だった。
大嫌いだった勉強も、真面目に授業を受けていたらいつの間にかクラスで1位になっていた。部活に入ることは許されなかったので暇つぶしで生徒会に入ったら、今ではもう会長だ。唯一良かったと思えるのは同じ生徒会役員であるレイと出会えたことだが、しかしそれだってとても嬉しいというほどのことではない。いつの間にか出来てしまった周囲との大きな壁の所為で、今ではシンに話し掛けることが出来る生徒なんて、レイ以外には誰もいない。寮の部屋も、勝手にレイと同室にしてしまった。レイといるのは気が楽だった。レイは多分自分と同じで、何にも興味が無いから。
当面の仕事は全て終わらせてしまったため、シンは暇つぶしにぶらぶらと廊下を歩いていた。入学式はもう始まっているため、生徒の殆どは帰宅している。寮に戻ろうかとも思ったのだが、しかしそういう気分にもなれなかった。
かつん、かつんと足音が聞こえ、シンは驚いて耳を澄ませた。この時間、新入生やその保護者、教師は体育館に集まっているし、他の生徒は立ち入り禁止だ。普段滅多に使われることのない、美術室へと繋がる長い廊下の奥から、その人物は姿を表した。
すらりとした細身の男で、茶色い髪に微かに隠れる瞳は紫だ。コーディネーターの多いこの学院でもかなり美形の分類であろうその顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。きっと素の表情がそれなのだろう。
シンは首を傾げた。あんな生徒、今まで見たこともない。新入生かとも思ったが、しかし彼の胸についているバッジの色はシンと同じ、3年生を表す青色だ。だとしたら彼は、立ち入り禁止にも関わらず勝手に入ってきたのだろうか。シンは立ち止まり言う。
「おい、あんた」
シンが声を掛けると、男は驚いた顔をしてシンを見た。そしてその表情が、だんだんと明るくなってくる。シンは首を傾げる。男の顔が、微笑から明らかな笑みに変わった。男はシンの前に立ち止まる。
「よかった、元気にしてるみたいだね」
男はそう言って微笑んだ。綺麗な顔だ、とシンは思ったが、しかし彼の顔ははじめて見る。シンが何も言わず訝しげに男の顔を見ていると、男もそれに気づいたらしく笑みに不安の色がよぎる。
「もしかして、覚えてない、かな。そうだよね、もう随分昔の話だし、」
男は悲しげにそう言うと、すっと右手を差し出した。
「シン・アスカくん、だよね。生徒会長の。僕はキラヤマト、よろしくね」
シンは差し出された右手を見た後、少し躊躇ったが自分の右手も差し出した。キラはそれをぎゅっと握ると、にこやかに微笑み言う。
「今日転校してきたばかりなんだ。先生に、キミに案内をしてもらえって言われたんだけど…」
「ああ、そういえば、」
今朝先生に会ったときに、そんなようなことを言われたかもしれないが、しかしシンの記憶は曖昧でよく覚えていなかった。レイなら覚えていたかもしれないが、しかしここにレイはいない。幸い今は入学式の最中で校舎の中には人が誰もいないから、案内するには最適だろう。シンは頷くと、歩き出し、キラはそれ以上何も言わず静かにその後をついてきた。
一通り説明をしながら廊下を歩き、先刻の美術室廊下の前まで戻ってきた。キラの顔は始終にこやかで、疲れないのだろうかとシンは少しだけ驚いた。そしてふと、先刻の彼の言葉を思い出す。
「…そういえば、さっきの話だけど、」
「ああ、あれ、」
キラの瞳の紫が、ほんの少し揺らいだけれどシンは気付かない。
「人違いだったみたい、気にしないで」
そう言って微笑むキラの顔は本当に綺麗で、シンは思わず無言で頷いた。
「キラヤマト?…転入生だろう」
「そうじゃなくて、」
レイの返答はシンが望んでいるものとはほど遠く、シンは慌てて首を振った。
「そういう意味じゃなくて…そいつの性格とか、どういう人物か、とか、そういうことなんだけど、」
もう一度問うと、レイは少し考え込んだ末、思い出したようにカタカタとパソコンのキーボードを打ち始めた。シンはレイの傍に近寄り、一緒になって画面を覗き込む。
画面に表示されたのは、職員達が管理している生徒の個人情報だ。本来ならば正当な理由がない限り開いてはいけないものだが、しかしシンもレイも何も言わずにそれを見る。
「キラヤマト…現住所はオーブ市街地…え、それだけ?」
「そうみたいだな」
転入生だから、未だデータが入力されていないのだろうか。レイとシンは互いに顔を見合わせて首を傾げた。シンとレイは同じクラスだが、しかし2人とキラは違うクラスだった。首を傾げるシンを見て、レイは問う。
「キラヤマトが、どうかしたのか?」
「…いや、別に、」
しかしシンは口篭もるだけで何も答えなかった。答えようが無かったからだ。この気持ちを、言葉にすることはシンには出来なかった。ただ言えることは、不思議だったからだ。初めてあったときのキラの言動から察するに、もしかしたら自分はキラと会ったことがあるのではないか、とシンは思った。だから彼について調べていけば、何か思い出せるかと思ったのだが。
「あら、それ、キラさんじゃない」
「おい、勝手に見るなよ」
シンはカチリとパソコンの電源を落とした。突然真っ暗になった画面に、ルナマリアは頬を膨らませる。
「いいじゃない、減るもんじゃなし」
「駄目だ。大体お前、なんで役員でもないのに勝手に入ってきてるんだよ」
「これ、届けに来たのよ」
そう言ってルナマリアは、手にもっていた沢山の紙の束をレイに手渡した。
「ああ、運動部の分の入部届けか。早かったな」
「とりあえずはこれだけ。もしかしたら増えるかもしれないけど」
そう言って、ルナマリアは来客用のソファーに腰を下ろした。ルナマリアはシンとレイの共通の友人で、この学院内でシンとレイに話し掛けることが出来る唯一の女子だった。シンが1年で生徒会に入ったときに、同じく早々から先輩と共に運動部をまとめていた彼女と知り合ったのだ。
「で、キラさんの個人情報なんか見て、何話してたのよ」
「別に、ルナには関係ないだろ」
「関係あるわよ。同じクラスメイトとして、」
「そうか、あいつ、F組か」
シンはぽんと手を叩き、ルナマリアの向かい側に座った。
「なあ、そのキラヤマトって、どんなヤツだった?」
「どんなって…美人だし成績は良いし、多分運動神経もよさそうね。物腰も穏やかで優しくて…女子には大人気ってとこね。あんたの良きライバルって感じじゃない?」
「他には?」
「他って言われても…そうね、なんかアスラン先生と知り合いみたいよ」
「ザラ先生と?」
シンは首を傾げた。アスランはこの学院の新任の教師で、シンたちより少し年上だが殆ど年齢は変わらない若い教師だった。数学担当で、頭が良く教え方も上手いのだが、他人とのコミュニケーションが下手らしく授業が終わるといつもそそくさと教室から出て行ってしまうので、シンも彼のことは殆どよくわからなかった。
噂ではアスランはプラントから来たということだから、もしかしたらキラもプラントの人間なのかもしれない、とシンは思った。しかしシンはプラントになんて行ったことがなかったから、だとしたらそれは自分とは関係のない話なのだろう。
「後輩の子がね、誰もいない美術室の中2人きりで話してるところを見たんですって」
「誰もいない美術室で2人っきり、ね」
「まあ本当に2人きりかどうかはわからないんだけどね。でも仲良く喋ってたっていうのは本当みたい」
「ふうん」
シンは頷いて、いつの間にかレイが用意してくれていたお茶を啜った。レイの入れるお茶は美味しい。しかし、生憎お茶を飲んだだけでは何も閃くことはなかった。
この学校に美術の授業は殆どなく、そして教室棟から離れた場所にある美術室は殆ど使われることはないため、キラはアスランと話をする際はいつもこの部屋を使うようにしていた。自分ははじめからオーブにいたことになっているから、プラントの人間であるアスランと親しくしているなんていうことは知られてはいけないと思ったからだ。
「シンが覚えていない?」
「うん、そうみたいなんだ」
キラの言葉に、アスランはため息を吐いた。掛けていた眼鏡を外し、思わず眉間を押さえる。
「オレのことも覚えてないみたいだし…どうやら本当にあの頃のことは忘れてしまっているようだな。…お前のことなら、覚えてると思ったんだが、」
「随分昔のことだから…それに僕も彼も、随分と変わったようだし」
キラの言葉に、アスランは苦笑した。その通りだった。久々に出会ったシンは、まるであの頃の面影などまるでないくらいに変わっていた。キラも同様だ。この数年間の間に何があったのか、アスランはわからない。想像することも、出来ない。
「だから僕、彼とは初対面ってことになってるから…当然、キミともね」
「わかった。…だが、このまま諦めるわけではないんだろう?」
「うん。だからね、…お願いがあるんだけど」
ごにょごにょと耳打ちされた言葉に、アスランは驚いたようにキラから数歩後退った。
「それは無理だ。大体オレは新任なんだぞ」
「大丈夫、僕、成績は良いから」
にこりと微笑むキラにほんの少し以前の面影を見つけ、それが懐かしくてついアスランは頷いた。
「新しい役員、ですか?」
「…ああ」
頷いたアスランは少し苦々しい顔をしていて、シンは首を傾げた。唐突に呼び出され告げられたのは、生徒会に新しいメンバーが入るかもしれない、という言葉だった。この学院の生徒会には、シンとレイしかメンバーがいない。というのも、この学院は本当に成績が優秀な人間しか入ることが出来ず、成績上位をキープしながらも生徒会の仕事をこなせる人間が、他にいなかったからだ。それに、ほんの少し余裕がある生徒でも、殆どは部活動のほうに行ってしまっている。だから新しいメンバーが入るという話を聞いたシンは、とても驚いた顔をした。
「そんなこと言われても、オレ一人じゃ判断できませんよ」
「わかってる。正式に決定したわけじゃなく、あくまでも仮、だ。暫く使ってみて、駄目だったら辞めさせれば良い。そこのところは、2人で話し合って決めてくれ」
「…わかりました。それでそのメンバーって、」
「悪いな、時間通りに来るよう伝えておいたのだが…少し、いや、大分遅れている。オレはこれから職員会議があるから失礼するよ」
「ってちょっと、そのメンバーは、」
「生徒会室に来るよう頼んだから、そっちで待っていてくれ」
本当に時間が無いらしく、ちらちらと腕時計を見ながらアスランは走って行ってしまった。残されたシンは、わけがわからず呆然とその後を眺める。
生徒会室の扉を開くと、そこにいたのはレイ一人だけだった。
「…なんだ、レイか」
「入ってきて早々に失礼なヤツだな」
「ザラ先生から聞いたか?」
どさり、とソファーに腰を下ろす。今日は大して仕事もないから早く寮に帰ろうと思っていたのだが、どうやらそれは無理らしい。レイも同様に、することがなくシンの向かいのソファーに腰を下ろした。
「新しいメンバーだろう?グラディス先生から聞いた。来ると言っていた時間からもう1時間経つが…まったく、彼は本当に入るつもりがあるのか」
「彼って、知ってるのか?」
「…聞いてないのか?」
レイに問われ、シンは頷いた。
「誰だよ、新入生?オレが知ってるヤツ?」
「本当に聞いてないみたいだな」
「勿体ぶってないで、早く言えよ」
「新しいメンバーは、どうやら」
しかし突然バタンと大きく扉が開き、レイの言葉はかき消された。
「シンー?いる?」
ずかずかと室内に入ってくるルナマリアに、シンは大きくため息を吐いた。ルナマリアは部活の最中だったらしく、指定のジャージ上下という姿だった。腕まくりをしており、額には汗が滲んでいる。そしてその手には、もう一人、制服姿の男の手が握られていた。
「…あんた、」
「遅れてごめんなさい」
そう言って頭を下げたのは、キラヤマトだった。
「あ、おかまいなく」
お茶を運んできたレイに深深と頭を下げ、キラはお茶を啜る。キラの向かいのソファーにはシンが、苛々しながらじっとキラを見ていた。
「で、1時間も遅れた理由は何だ」
「話せば長くなるんだけど、」
レイがシンの隣に座る。キラは一息つくと、ゆっくりと話し始めた。
「ザラ先生に4時に生徒会室に行けと言われて僕は教室を出たんだけど、生徒会室に向かう途中で僕、生徒会室の場所を知らないことに気が付いて…でも校舎の中にあるのは確実だから、歩いていれば見つかるだろうと思って歩いていたんだけど…全然見つからなくて…体育館に出たら、ルナマリアがいて、事情を説明したらここまで案内してくれたんだ」
「要するに迷子か」
こくりとキラは頷いて、シンは大きくため息を吐いた。体育館は間逆の方向だ。それに、ここは玄関のすぐ近くにあるし、別段わかりにくいというわけではないのに。初日に彼を案内した自分の所為だろうかと思ったが、しかしキラはあの日も誰もいない美術室の方から出てきたから、おそらく生粋の方向音痴なんだろう、ということにしておいた。
不機嫌そうな顔をしているシンに、キラはまた頭を下げる。
「ごめんなさい、まさか1時間も遅れるなんて思わなくて…1時間前に教室を出たんだけど、足りなかったみたいで、」
「…あんた、2時間も校内をうろついていたのか」
またこくりと頷くキラに、シンもまた大きくため息を吐いた。すると黙ってシンの隣に座っていたレイが、漸く口を開く。
「とりあえず今日のところはこの辺にして、仕事は明日からにします。いいな、シン」
「いいけど、」
このままでは埒があかないと思ったレイが口を挟むと、シンはまだ少し不服さが残る面持ちで頷いた。新しいメンバーが入ることは賛成だった。今までもきちんと仕事はこなせていたけれど、それでも人数は多いにこしたことがないからだ。だが問題なのは、キラ本人で。生徒会役員に推薦されるということは、おそらく成績は良いのだろう。それはルナマリアも言っていたことだから、間違いないはずだ。シンはちらりとキラの顔を見る。キラはあの時と同じように、うっすらと笑みを浮かべた表情でこちらを見ていた。キラを見ていると、忘れていた何かを思い出しそうになって、それが苦しくてたまらない。なぜ彼が自分のことを知っていたのか知りたい、けれど、彼に近づいてはいけないような気がしてくる。矛盾する思考にシンはため息を吐く。
「じゃあ今日のところは解散。明日も4時にこの部屋に来るように。遅れるときは、事前にオレかレイに連絡すること。オレもレイもA組だからな。わかったか」
「うん」
「仕事が多くて、夜遅くなるかもしれないけど、寮長にはオレから連絡しておくから、」
「あ、僕、寮じゃないから、」
「そうなのか?」
シンは首を傾げた。キラはほんの少し揺らいだ瞳でシンを見る。
「自宅から、通ってて…だから、遅くなるのは問題ないから」
「ふうん」
珍しい、という顔で、シンはキラを見た。この学校の殆どの生徒は寮から通っている。名門校というだけのことはあり、各地から生徒が集まっているから自然と皆寮に集まるのだ。レイもルナマリアもプラント出身だし、地元から通えるような生徒は殆どいない。オーブ出身であるシンは自宅から通うことが出来たのだが、しかしシンも寮を選んだ。転入生ということだから、キラも当然寮だと思っていたのだが、どうやら違うらしい。
「まあいいや。とにかく明日の4時だ。忘れるなよ」
そう言ってシンは立ち上がる。続いてレイも立ち上がると、つられるようにしてキラも立ち上がった。
「鍵はオレが持ってる。もし4時前に来る時とか、昼休みこの部屋に用事がある時はオレに言え。わかったか?」
こくりとキラは頷くと、促されるようにして慌てて部屋を出た。