その日僕は予定を早めに繰上げ、一人艦内の廊下を歩いていた。ここはおそらく居住区なのだろう。艦内に入ってからというもの、殆ど誰ともすれ違ってはいない。カツカツと僕の足音だけが響いていたのだが、十字路を右に曲がったところで、足音が増えたことに気がついた。振り返ってみるが、後ろには誰もいない。気にせず歩いていくと、カーブを描く前方の通路から、僕と同じ赤い軍服が見えた。金色の髪を靡かせて、こちらに向かって歩いてくる。
「なんだ、キミか。残念」
僕がそう言うと、レイは驚いたように僕の顔を見た。おそらく僕がここに来るということを議長から聞かされていないのだろう。というよりも、もし聞かされていたとしても、僕はその予定より遥かに早い時刻に来たのだから、驚いて当然なのかもしれない。
「本当に…この艦に、」
レイの言葉に僕は微笑む。
「ギルの意向だよ。断るわけにはいかないでしょう?」
レイの顔が露骨に歪んだのを見て、僕はおもしろくてつい声を出して笑ってしまった。
彼は議長を慕っている。誰にも話せない出生の秘密を持つ彼は、おそらく今まで議長しか親しく出来る人はいなかったのだろう。長年一緒にいて得た信用を、ぽっと出の僕が易々と手に入れたのが気に入らないらしかった。それは当然のことだと僕は思う。しかし僕は、彼のことは嫌いではないので、つい、今みたいにわざと怒らせてからかってしまうのだ。おそらく僕は彼に嫌われているのだろうけれど、そんなこと僕にはどうでもよかった。
「キミがそこまで僕のことを嫌うなら、ギルに頼んで配属先を変えてもらってもいいけど、」
「気安く彼の名を呼ぶな。…それに貴方はここ以外、行き場などないでしょう」
レイは言う。彼と同じく美しくない過去を持つ僕も同様に、今は議長以外に親しく出来る人はいないのだ。そしてそれを、レイも知っている。僕はにこりと微笑み言った。
「行き場なら沢山あるさ。キミと違ってね。僕が選ばないだけ」
レイはぐっと拳を握った。レイは知らないのだ。たとえ僕と彼が同じようなものだとしても、僕と彼では、生きてきた場所が違うのだから。彼は自分の場所を選ぶことなく、きっと議長の指示に従うだけなのだろう。可哀想だとは思うが、しかし彼にとってはそれが一番なのだから仕方が無い。同時に彼は、全てを失って議長のところに来た僕を可哀想だと思っているに違いない。現に僕は全てを失い、そして議長のところに来たのだから彼の見解は間違いではない。ただひとつ間違いを上げるならば、僕は決して可哀想なんかじゃない、ということだけだ。
レイはじっと僕の顔を見ている。彼が何を考えているのかはわからないが、その表情から察するにきっと苦手な僕に出合ってしまって困惑しているに違いない。くすりと笑みを零すと、彼は苦し紛れに言った。
「…ザラ議長なら、射撃訓練所にいますよ」
とっさに話題を変えた彼が口にしたのは、僕が探していた幼馴染のことだった。彼は僕が彼を探しにこの艦に来たことを知っている。しかし今僕が探しているのはその幼馴染ではなく、あの赤い目をした少年だ。
「アスラン?彼はいいよ。僕ね、今シンって子を探してるんだけど…」
僕がそう言うと、レイの瞳が驚きに見開かれた。
「何故貴方が、シンを」
「ナイショ」
人差し指を立てて口の前におき、僕は言う。彼ならばきっと何か突っ込みをいれてくれるのだろうけれど、しかしレイの頭の中は今非常に混乱しているらしく、じっと僕の顔を見ていた。それほどまでに驚くことなのだろうか、と僕は思うが、しかし現にレイはとても驚いているのだからそうなのだろう。僕は首を傾げてレイを見る。するとレイははっと思い出したように、いつものポーカーフェイスを取り戻した。
「…シンなら射撃訓練所にいますよ。ザラ隊長と一緒に」
僕は小さく溜息を吐いた。
「なんだ残念。本物が見てみたかったんだけどな」
「行けばいいじゃないですか」
「見つかるじゃないか」
レイは首を傾げながらも頷いた。今射撃訓練所に行けば、きっとあのシンという子はいるのだろう。けれどアスランに見つかってしまうのは得策ではない。彼は未だ、僕が死んだと思っているのだ。彼と出会うのは僕が配属されてからでも充分だろう。
「…どちらにしろ、シンには深く関わらないでください。あなたと関われば、きっと彼は傷つく」
レイは言う。それは事実だ。僕と出会いレイは傷ついたし、そしてアスランも傷つくのだろうと思う。それは本当のことなのに、何故レイは、そんな悲しそうに言うのだろうか。レイは優しい。アスランも優しい。優しくないのは僕で、悪いのも僕だ。そして僕はふと、ひとつのことに気がついた。レイが議長以外の人間をここまで心配するところなんて、見たことがない。
「キミはシンが好きなんだね」
僕がそう言うと、例は気恥ずかしそうに顔を背けた。あのレイが誰かに興味を持つなんて、とても良いことだと僕は思う。議長しか知らなかったし、知ろうともしなかったレイが興味を持った人間、シンアスカに、やはり僕は会ってみたいと思った。
レイは僕がにやにやと笑っているのが嫌だったのか、いつもの無表情で
「彼は大事な仲間です」
という。いくら苦し紛れの言い訳だとしても、その言葉だけは言ってはならないのに。
「仲間?キミがそれを言うの?」
思わず冷えてしまった言葉で言うと、レイがぐっと息を呑んだのがわかった。僕はあわてていつものように微笑むが、しかしレイはとても驚いた顔で僕を見ていた。
「今の僕等には、一番不要な言葉だよ」
静かにそう言うと、レイも小さく頷いた。レイの言葉に深い意味などないことはわかっている。しかし僕は、仲間という言葉だけはどうしても好きになれなかった。僕等に仲間なんて不要だ。なぜならば、僕等と仲間になり得る同じものなど、誰一人としていないのだから。
嫌な沈黙が流れ、僕は小さく溜息を吐いた。そろそろ退散しようかと、踵を返したそのとき。
「レイ!」
沈黙を破ったのは、突如聞こえた明るい声だった。そしてぱたぱたと駆け寄ってくる足音。レイは驚いて振り返った。僕もじっと目を凝らす。カーブの向こう側から走ってきたのは、先刻までの話題の人物、シンだ。シンは僕の姿には気付いていないらしい。レイを見つけると、ほっと胸を撫で下ろし駆け寄った。
「隊長が待ってるぞ、今何時だと思ってるんだ」
シンに言われ、レイは腕時計を見た。どうやらレイは彼等と同じく射撃訓練所に向かおうとしていたところを、僕が引き止めてしまったらしい。
「すまなかった。今から行く」
「ちゃんと隊長に謝れよ」
僕はレイの隣で楽しそうにやりとりをする2人を黙って眺めていた。同時に、間近で見るシンアスカの姿を、僕はまじまじと見つめる。黒くつんつんと跳ねた髪に、赤い瞳がきらきらと耀いている。写真よりもずっと綺麗なそれに、僕はつい見蕩れてしまった。するとシンは僕の視線に気付いたらしく、ふとこちらを見た。シンの視線が僕の瞳を捕らえる。シンの顔が少し驚きに見開かれ、僕は首を傾げた。
「なあレイ、この人は?」
シンは視線を僕から外さずに、レイに尋ねる。レイが答える前に、僕は一歩前に出て言った。
「僕はキラ。よろしくね?」
「あ、オレ…自分は、シンです。シン・アスカ。あの…あなたは、どこの隊の、」
シンは言う。ミネルバはシンとレイとアスランの3人しか赤服がいないから、同じく赤服を着ている僕を、違う隊の人間だと思ったらしい。窺うように尋ねてくる彼の顔が可愛らしい。緊張しているのだろうか、彼はぎゅっと軍服の袖を握っていた。
「キラでいいよ。前はジュール隊にいたんだ」
「ジュール隊!?」
シンは驚いたように声を上げた。僕が首をかしげていると、レイがこっそりと「ジュール隊は有名なんですよ」と教えてくれた。そういえばイザークは、プラントの評議会に顔を出すたびに色々な人に挨拶されていたような気がする。さらに思い出したのだが、議長も「ジュール隊ならば大丈夫だろう」と言っていた。僕はそれを、僕とイザークが知り合いだからだと解釈していたのだが、どうやら違ったらしい。
僕はふと、レイの戸惑うような視線に気付いた。そういえばレイは、僕とシンを関わらせたくないと言っていた。僕はそれでもいいかと思っていたのだが、しかし当のシンが積極的に僕に話しかけてくるのだから仕方が無い。レイがシンのことを好きだということはわかった。きっとレイは、シンが好きでやっていることならばなるべく止めることはしたくないのだろう。僕が小さく笑うと、レイとシンが顔を見合わせて首を傾げた。
「ところで、射撃訓練はいいの?隊長が待ってるんでしょう?」
僕がそう言うと、レイはとても驚いたような顔で僕を見たが、僕は気付かないフリをした。
「あ、そうでした」
シンはくるりと踵を返すと、後ろに立っていたレイの腕を掴む。元気な子だ、と僕は思う。
「じゃあ、失礼します」
そう言ってぺこりとお辞儀をし、シンはレイの手をひき去っていった。去り際にレイがちらりとこちらを振り返ったので、僕はひらひらと手を振った。
胸元から、1枚の写真を取り出し僕はそれを見る。イザークからもらった、シンアスカの写真だった。僕はそれを見て首を傾げた。写真に写る彼の瞳は、綺麗な赤色をしているがしかし奥は暗く濁っている。だが先刻出会ったシンは、暗い影など何も見せない、とても元気な普通の少年だったのだ。僕は写真を内ポケットに仕舞うと、また歩き出した。
次の日の朝。僕は隣の部屋から開かれた扉を見つめた。艦長はすでに中に入っており、間も無く僕を呼ぶのだろう。今日はミネルバに配属される日だ。艦長室に続く扉は開かれており、中から少しにぎやかな声が聞こえた。その声の中に聞きなれた幼馴染のものをみつけ、僕の顔が綻ぶ。拙い僕の頭は、僕が現れることでおきる彼らへの弊害を知っていながらも、何も気付かないふりをしてしまうのだ。
「…早速紹介するわね」
艦長がそう言い、軽く壁をノックした。僕は笑顔を作り、艦長室に入る。息を呑む音が2つ。おそらくアスランと、シンだろう。僕は敢えてアスランの顔は見ずに、シンを見て微笑んだ。
「あなたは、」
「キラ、」
シンとアスランが呟いたのは殆ど同時のことだった。そして2人は驚いたように顔を見合わせる。
「紹介するわ。彼はキラ、技術士よ。人手が足りない場合はMSに乗ってもらうことにもなるから、そのつもりで」
「よろしくね」
僕は微笑み一礼する。
「それと気付いていると思うけど、彼は議長直属の特務隊よ。権限はアスランと同じか…それ以上ね」
その言葉に、3人の視線が一斉に僕の胸元に輝くバッジに集まった。
「そんなに気にしなくていいから、」
僕がそういうと、艦長は小さく笑った。
「彼の部屋はさっき荷物が届いたばかりだから、誰か部屋の整理を手伝ってあげて頂戴。それとアスラン」
「なん、ですか」
未だ動揺を隠しきれていない様子のアスランは、震える声で返事を返す。
「話があるわ。あなたは残って」
「わかりました」
シュン、と音がなり、扉が閉じる。アスランを残した僕ら3人は、艦長室を後にした。
「あの、お部屋の片付け、手伝いますけど、」
「シン、お前はまだ訓練が残っているだろう」
たどたどしい口調で言うシンに、レイはすかさず牽制する。僕はそのやり取りが面白くて小さく笑った。シンとレイが、ばつが悪そうに顔を見合わせた。そしてシンは、伺うように僕の方を見る。僕だって出来れば彼を指名したいところだが、しかしレイの恋を邪魔することも出来なかった。
「訓練が残ってるのなら仕方が無いね。レイ、手伝ってくれるかな」
「…自分が、ですか?」
「そう。お願いね」
レイは意外そうな顔で首をかしげた。僕はシンに「訓練頑張ってね」と言うと、レイの手を引き歩き出した。
僕の部屋は、どうやらレイ達の部屋からさほど遠くない場所にあるらしい。レイが事務的な口調で教えてくれた。しかし室内は彼らの部屋より幾分か広い部屋になっているらしく、レイはほんの少しだけ羨ましそうに何も無い室内を眺めていた。
部屋の真ん中にはダンボールが、未だ手付かずの状態で積み上げられている。この艦にやってきたのは少し前だが、荷物が届いたのはつい先刻なのだ。荷物といっても日常生活に必要なものはこちらで用意してくれているから、特に急いで片付けなければならないわけでもないのだが、しかし手伝ってくれるというのならその好意に甘えるしかないだろう。レイはダンボールの中を見て一瞬顔を顰めたが、すぐに中の物を整理し始めた。
「てっきり、シンを指名すると思っていました」
箱に詰められた本を棚に並べながらレイは言う。レイにしてみれば、僕が誰も指名せずに、彼ら2人が訓練所に行くというのが一番だったのだろうけれど、しかし僕も一人で部屋の片付けなんてしたくはない。それに、今のところこうやって心を許すことが出来るのは、彼しかいないのだ。
シンは可愛い。素直だし、まっすぐだから好きだ。もし数年前の僕だったらすぐに仲良くなるよう接する機会を増やすのだが、しかし今の僕には不可能だった。
「自分の身の程は、理解しているつもりだよ」
レイは首を傾げたが、その瞳は少し悲しそうだった。僕はそれでいいと思った。哀れまれるくらいの視線が、僕には多分ちょうど良いのだ。
僕がミネルバに配属されてから、暫く経った。僕は未だアスランと会話を交わしていない。もしかしたらすぐにでも部屋にやってくるかもしれないと思っていたが、しかしそれはなかった。食事の時間も、おそらくずらしているのだろう。僕は食堂で一度も彼を見かけたことはないし、見かけたとしても彼はこちらに気付くことなく出て行ってしまう。おそらく戸惑っているのだろうと僕は思う。死んだはずの人間が突然姿を現して、しかしなお平静を装うことなど彼には出来ないのだろう。
そして僕は、数日前の決意とは裏腹に、何故かシンと少しだけ親しくなってしまった。というのも、シン自身が積極的に僕のところに来るため、僕としても気をつけているのだけれどつい、彼と親しく接してしまうのだ。レイが彼を好きになった気持ちが、少しだけわかったような気がした。彼は優しい。彼ならば、僕たちの事実を知っても、何も気にせず笑っていられるようなそんな気がする。
「あ、アスラン」
僕は珍しく食堂で朝食を食べるアスランの姿を見つけ、近寄った。アスランは僕の顔を見て一瞬驚いたような複雑な顔をした。
「…どうかしましたか?」
アスランは事務的な声で言う。少しだけ驚いて彼の顔を見るが、彼の表情からは何も伺えない。瞳に過ぎるのは、ほんの少しの罪悪感の色だ。僕は小さくため息を吐いた。
「…敬語なんて必要ないよ」
「隊長のオレが規律を守らないでどうする」
アスランはほんの少しだけ笑って言った。しかしその笑顔は僕が知るものとは程遠く、驚きと同時に、よくわからない感情が胸の中を満たしていく。
「そう」
僕は小さく笑って席を離れた。僕の顔を見たアスランの瞳がほんの少しだけ揺らいだ気がしたが、しかし僕は気付かないふりをした。
時は人を変えてしまうのだ。
僕が変わってしまったように、アスランもきっと変わったのだろうと思う。過ごした過去の時間など、今に比べたらほんの些細なものに過ぎないのか。昔のようにはいかないことくらい、僕にだってわかっていた。けれどやはり、考えていることと実際されることとでは攻撃力は桁違いらしい。
ふらふらとした足取りで部屋に戻ろうとしていたところ、背後からぎゅっと袖口とつかまれて僕は驚いて振り返った。そこにいたのはシンで、心配そうに僕の顔を覗き込む。
「キラさん?」
「シンくん、」
僕はほっと胸を撫で下ろした。今ここで出会ったのが彼で、本当に良かったと思う。僕が安心したように微笑むと、彼も同時に安心したのか少し顔を綻ばせた。
「どうかしましたか?」
「あのね、アスランが、」
言いかけて僕はあわてて口を噤んだ。シンは首を傾げる。彼は僕とアスランに繋がりがあることを知らないし、第一僕は彼に何を言うつもりだったのだろう。彼がまるで他人のように僕に接して、寂しかったなどとでも言うつもりだったのだろうか。それこそ何様、といったところだろう。アスランにはいまさら、僕と親しく接しなければいけない理由など、何一つない。彼のキラは1年前に死んだのだから。
「隊長がどうかしましたか?」
「ううん、なんでもない」
にこりと微笑み僕は首を振る。シンは少し不審そうに僕の顔を見ていたが、しかし納得したらしく「なら、いいんですけど、」と言った。しかし彼の顔にいつものような明るい笑顔は戻らない。僕は何故かそれが嫌で、彼を喜ばせようと彼の手を掴んで言う。
「そうだ、美味しい紅茶が手に入ったんだよ。お菓子もあるから、僕の部屋に来ない?」
「え、ほんとですか!?」
途端にシンの顔がぱあっと明るくなり、僕は嬉しくてつい微笑んだ。するとシンは、はっと思い出したように表情を暗くする。
「でもオレ、レイと約束があって、」
「じゃあレイも誘えばいいよ」
僕がそういうと、シンは「それもそうですね」と言い、そして「レイを探してきます」と言って足早に去っていってしまった。その後姿を見送りながら、僕はほっと胸を撫で下ろす。議長から紅茶とお菓子を頂いておいてよかった。味にうるさいレイならば、これが議長からの頂き物だということにすぐに気付いてしまうのだろうけれど、しかしシンが一緒なら何も言われないだろう。僕も自分の部屋に急いだ。