「うん、大丈夫だよ。ご飯も食べてるから」
しんとした室内に、キラの声だけが響いている。先刻シンが見る限りでは初めてキラの携帯電話が鳴って、キラはその画面を見て一瞬驚いたような、よくわからない表情をしたけれど、そのまま電話に出た。それから未だ数分喋り続けている。
「…そんなに心配しないで…わかってるよ。じゃあ、またね」
「親ですか?」
漸く電話を切ったキラに、シンが尋ねる。
「まあ、そんなとこ。…って、キミまた来たの!?」
普通に返事をした後、驚いたように目を見開いたキラに、シンは首を傾げた。どうやらキラは、シンが入ってきたことに気付いていなかったらしい。
「当たり前じゃないですか。毎日キラさんの声聞かないと気がすまないんです」
「それなら電話でいいじゃない」
キラの言葉に、シンは一瞬言葉を詰まらせる。本来ならそうするのが一番なのだが、しかしそれは出来ないのだ。
「…最近バイト終わるの遅いから、キラさんに迷惑かかるといけないし」
シンの言うとおり、以前は0時前に終わっていたバイトも最近では1時、2時になってしまっていて、睡眠時間すら足りない状況だ。バイトの時間を減らすわけにはいかないが、しかしキラの声は聞きたいため、シンは学校が終わった直後キラのところに赴き、そしてギリギリまでキラと話をしてからまたバイトに向かうのだ。
「大丈夫だよ、僕は別に夜中でも」
「それって電話して欲しいってことですか?」
わざとらしく嬉しそうに微笑んで、シンは言う。キラもまたにこりと微笑み言う。
「まさか」
「そんな真っ向から否定しなくても…」
シンががくりと肩を落とすと、キラが声を出して笑った。
「あれ、シン、電話鳴ってるよ?」
キラに言われ、シンは急いでポケットを探る。マナーモードにしてあった携帯電話が、ぶるぶると震えていた。メールかと思ったが、しかし振動が長い。不思議に思い開いてみると、着信だった。
「え?ルナだ」
失礼します、と言って、シンは電話に出る。キラはそんなシンを眺めていた。
「なんだよ。…え、レイ?…あ、忘れてた。…うん、わかったよ。え?あー、いいよもう、なんでも。明日はちゃんと出るからさ」
じゃあなといってシンは電話を切る。
「友達?」
キラが尋ねると、シンは頷いた。
「もうすぐ学祭なんですけど、準備あるのすっかり忘れてて…」
「そういえば学祭の時期かー」
ぼすん、とキラがソファーの背に倒れこんだ。
「キラさんのところはないんですか?」
「うちは秋だから」
はあ、とキラは溜息を吐いた。生徒会長でもあるキラは、きっと学校祭は仕事が多くて嫌なのだろうか、とシンは思ったが、真相はわからない。するとふと思い出したように、キラは起き上がる。
「ってことは、準備があってもうこここれないんじゃない?」
キラの言葉に、シンは溜息を吐く。
「そうなんですよ。夜は電話できないし…でもオレ、出来る限り来ますから!」
「別に無理してこなくてもいいんだよ?」
「オレが来るの、迷惑ですか?」
悲しく濁ったシンの瞳で見られ、キラはどきりとした。本当のことを言えば、キラ自身、シンがここに来てくれるのは嬉しい。それに、電話だって別に嫌じゃないから、夜中だって全然平気なのだ。素直にそう言えないというのもあるが、シンの反応が面白くて、ついいつもからかうような返事を返してしまう。素直なシンが、自分の些細な言葉で一喜一憂しているのは、嬉しいけれど少し忍びない。
困ったようにキラが笑うと、シンも困った顔でキラを見た。
「まあ、無理しないように頑張ってね。僕に会うことなんていつでも出来るけど、学祭は今しなできないんだからさ」
「でもオレは、」
言いかけて、シンは何かを考え込むように黙り込んでしまった。キラは首を傾げた。隠し事なんて出来ないような素直な性格をしたシンが、それでも言えないことなんて、いったいどういう内容なのだろう。キラは首を傾げたが、間もなくしてシンのバイトの時間になり、彼は帰っていった。
次の日の朝。出来る限り学校に行くようにしているシンだったが、その日もやはり寝坊してしまい、学校に辿り着いたのは3時間目が終わった頃だった。
「…シラユキヒメ?」
シンは首を傾げる。授業は無く、ずっと学祭の準備の時間に当てられていたらしい。黒板には大きく「白雪姫」と書いており、その下には小さい字で名前が書いてある。配役だ。
「そうよ」
シンの隣で何故か仁王立ちしているルナマリアが、腕を組み言う。
「…誰が?」
「シンに決まってるじゃない」
そう言ってルナマリアは、黒板の上、白雪姫の文字の右に書かれているシンの名前を指差した。
「なんで!」
ばん、と机を叩いて、シンは立ち上がる。しかしルナマリアは怯むことなく言った。
「シンが昨日勝手に帰るからいけないのよ。大事なくじびきするからって言ったじゃない。それにあんた、レイに勝手に引いていいって言ったんでしょ?」
「…そうだけど」
大事なくじ引きをするから残れ、と言われていたことは知っている。だが、昨日のレイからの電話で思い出したのだから、それは知らなかったと同義だ。そしてシンは、キラとの時間を優先するあまり、レイの話を半分に、適当に返事をしてしまった。
「…でもオレ男だぞ?せめて主役は女にしろよ」
「それじゃあおもしろくないじゃない」
ルナマリアはシンの肩にぽんと手を乗せて、諭すように言う。
「大丈夫よ、王子はレイだから」
「…何がどう大丈夫なんだよ」
シンの呟きを無視し、ルナマリアはばん、とシンの机の上に乗っている台本を叩いた。
「今日から早速練習よ、シン!サボっちゃ駄目だからね!」
「わかってるよ…」
シンの溜息は、楽しそうなルナマリアの笑い声にかき消された。
「今日はあいつは来ないのか?」
生徒会室の中、いつもシンが座っているソファーに腰を下ろし、アスランは言う。パソコンの前に座り入力作業を行っていたキラは、振り返ることなく尋ねる。
「あいつ?」
「他校の、」
「ああ、シンね」
キラは立ち上がると、アスランの隣に腰を下ろした。
「来ないんじゃないかな。学祭の練習あるって言ってたし」
「このままずっと来なければいいな」
「アスラン…」
キラが呆れたように咎めるが、アスランはふんと静かに笑うだけだ。
「キラを口説こうなんて10年、いや、1000年早い」
「シンは良い子だよ」
キラの知る限りでは、シンはちょっとそそっかしいところもあるし素直すぎるところもあるけれど、その全ては他人のためであって、あれほどまでに良い人間を殆ど見たことがないくらいだ。しかしアスランはシンを知らないし、知ろうとも思っていない。知っているのは、彼がキラを口説いているという事実のみだ。
「キラの前では良い子のフリをしているだけかもしれない。…心配だな。学祭、見に行くか」
「え、アスランが!?」
アスランの唐突で意外な言葉に、キラはとても驚いた。アスランは当たり前だ、という顔で頷く。
「学祭みたいな多人数の空間でなら、ヤツもボロを出すかもしれない」
「そっか、学祭か…」
呟き俯くキラに、アスランはそっと手をかける。
「無理するな。オレが見てきてやるから」
「…うん」
キラはぼんやりと、備え付けられた食器棚の上、いつの間にかシンが持参した赤いマグカップを眺めた。
それから数週間後。途方も無く記憶力の悪いシンの必死の練習の末、漸く1日だけ休日をもらえたシンは、久々にキラの学校を訪れた。連絡は入れていないが、生徒会室には明りがついているのできっとキラはいるだろう。コンコンとノックをして扉を開くと、中にいる人物と目が合った。キラではない。
「げ、」
「なんだその、げ、というのは」
ソファーに座っていた藍色の髪の男は、シンの顔を見るなりきっと表情を強張らせた。シンは彼を知っていたし、彼もシンを知っていたが、実際に会話を交わすのは初めてだ。キラが彼のことをアスランと呼んでいた。教師のくせにキラと親しげで、シンは気になっていた。いつもはキラがいて、キラが2人の会話が始まる前に、どちらかを部屋から追い出してしまうのだが。しかしそのキラは今、室内にはいない。
「…キラさんは?」
シンは尋ねる。アスランはふんと鼻で笑い言う。
「オレが教えると思うか?」
「大人気ないですね」
こいつは敵だ、とシンは思った。シンは大人が好きじゃなかった。大人は傲慢だ。大人だからといって、全てを所有する権利などないのに。大人はにやにやと笑いながら言う。
「大人だからな。子供は早く家に帰れ。下校時間は過ぎているぞ」
「キラさんに会ったら帰りますよ」
「学祭の準備があるんじゃないのか?」
アスランの言葉に、シンは首を傾げた。が、考えるまでもなく、きっとキラに教えられたのだろう。どういう経緯でシンの話になったのかはわからないが、キラに自分の話をされるのは嬉しい、とシンは頭のどこかで考える。そして残りの頭で、当面の敵、アスランをどうしようかと考えた。
「今日は休みなので」
「余裕だな。楽しみにしてるよ」
にやり、とアスランは笑う。シンは嫌な予感がして、思わず1歩後退った。
「まさか…来るんですか?」
シンの予想通り、アスランは嫌な笑みを浮かべながら頷く。
「キラさんと?」
「キラは行かない。多分無理だろうからな」
「…無理?それはどういう、」
「キラから聞いてないのか?」
意外、という顔で見られ、シンは眉間に皺を寄せた。シンが何も答えずにいると、アスランは面白そうにくつくつと喉で笑った。
「子供には関係のない話だよ」
これだから大人は嫌いだ、とシンは思った。何か言い返そうと思ったところで、自分のすぐ後ろにあった扉が音を立てて引かれる。同時にアスランの顔から、あのにやけた笑みが消え、代わりにつまらない、というような表情になった。
「なにやってるのアスラン」
振り返ると同時、その声は聞こえた。
「あ、キラさん」
シンが振り返りキラの顔を見ると、キラはにこりと微笑んだ。そして、またアスランの方を見、言う。
「先生たち、待ってるよ。会議あるの忘れたの?」
「今行くよ」
苦笑しながらアスランはシン達の横を通り、部屋を出る。去り際にまたな、と言って手を振られたが、シンはそれをキっと睨み返した。
「まったくもう…あれ、シン、学祭の練習は?」
呆れたようにキラは溜息を吐き、そして少し驚いた顔でシンを見た。シンは久しぶりに見るキラの顔に、ほっと息を吐き微笑んだ。
「今日は休みです。衣装作るみたいで」
「ってことはシン、劇なんだ」
「あ」
咄嗟に口を閉じたが、既に遅い。良いことを聞いた、というように、キラの唇が綺麗な孤を描く。
「へえ、何やるの?」
隠し切れないなら喋らなければいいと、シンはキラから目を逸らし黙り込んだ。しかし。
「教えてくれないの?」
寂しそうな顔で問われれば、シンには隠し切ることが出来ない。
「…白雪姫です」
「あ、わかった。シンが白雪姫なんでしょ」
先刻の寂しそうな表情から一転、楽しそうに笑いながら言うキラに、シンはうっかり「なんでわかったんですか」と言った。しまった、と後悔するシンを他所に、キラがまた楽しそうに笑う。
「シンが白雪姫かー」
「くじ引きで勝手に…」
「…そっか、」
「キラさん?」
ぼんやりと俯くキラを、シンは呼ぶ。
「どうかしましたか?」
しかしキラはシンの顔をじっと見ると、小さく溜息を吐いて静かに微笑んだ。
「なんでもないよ」
シンは首を傾げる。が、キラはにこりと微笑んだまま、何も答えない。シンはふと、先刻のアスランの言葉を思い出した。
「キラさんは、来れないんですよね」
「え?どうして、」
予想外のシンの言葉に、キラは驚いたように目を見開いた。シンは誰もいない扉を見て言う。
「さっきあの人が、」
「ああ、アスラン。…でも、シンが白雪姫なら見てみたいな」
キラの言葉に、シンは思わず立ち上がる。
「い、いいですよ見なくて!」
「僕が行くの、迷惑?」
きっとキラは、自分がこの顔に弱いということを知っているのだろう。悲しそうな顔で見上げられて、シンは顔を逸らしぐっと息を呑んだ。
「迷惑なんて、そんな、」
くすり、とキラの笑う声がして、シンはキラを見る。
「冗談だよ。行かないから安心して」
「…はい」
微笑みながら、だけど悲しい声で言うキラに、シンはただ頷くことしか出来なかった。
「あら、キラさん来ないの?」
劇の休憩中、窓際の席でぼんやりと外を眺めているシンに、ルナマリアが問う。今朝からずっと元気のないシンを、一体どうしたのかとレイに尋ねると、「きっとキラさんとやらが来ないんだろう」と言った。
「多分」
つまらなさそうに答えるシンを見て、どうやらレイの読みはあたっていたようだ、と、ルナマリアは密かにレイを賞賛した。シンははあ、と大きく溜息を吐く。ルナマリアの知る限りでは、今日でもう10回を超えている。つられてルナマリアまで溜息を吐き、言った。
「来てもらえばいいじゃない。白雪姫見られるのだって、そんなに嫌じゃないんでしょ?」
「嫌だよ」
「でもキラさんには来てほしい?」
シンは答えない。沈黙は肯定だと、ルナマリアは話を続ける。
「じゃあ来てほしいって言えばいいじゃない」
するとシンは、漸く顔をあげた。
「無理なんだ」
「どうして?」
「…わかんない」
しかしまた溜息を吐いて窓の外に視線を戻したシン見て、ルナマリアはどうしようもないと判断したらしく、ひとつ息をついて踵を返す。
「キラさんが来ないからって、手、抜かないでよね」
「わかってるよ」
口を尖らせながら言うシンは、イスから立ち上がる際漸く隣に座っていたレイがいないことに気付く。
「あれ、レイは?」
「ちょっと出かけてくるって。生徒会かしら」
「ふうん」
時刻は4時10分。放課後が始まっていたが、シン達はずっと学祭の準備をしていたので、そのことには気付いていなかった。
「キラ」
アスランが扉を開けると、キラは珍しくパソコンの前にいながらも視線を扉に向けていた。しかし、入ってきたのがアスランだと分かると、溜息を吐く。
「なんだ、アスランか」
アスランはキラの、なんだ、という言葉が少し気になったが、何も言わずに手招きする。キラは首を傾げた。
「客人だ。どうする?」
「僕に?」
誰だろう、とキラは考える。自分を訪ねてくる人として唯一思い浮かんだシンは、勝手に部屋に入ってくるので違うだろう。
「今は会議室にいるが…」
呼んでこようか、というアスランの言葉に、キラは静かに首を振る。
「僕が行くよ」
ディスプレイの電源を落とすと、キラは部屋を出た。
アスランは用事があるので他の教室に行ってしまった。キラが扉を開くと、中にいた金色の髪の少年が立ち上がる。
「突然尋ねて申し訳ありません」
深々と礼をするその少年はとても綺麗な顔立ちをしていて、他校の制服を着ていた。年齢は自分と同じか、下だろう。シンと同い年だろうか、とキラは思った。
「あなたは、」
「あなたがキラさん、ですか?」
キラの問いを遮り、少年は言う。
「そうだけど」
「自分はシンの友人です」
シンの友人だというその少年は、そう言うと制服のポケットから1枚のチケットを取り出した。
「これを渡しに」
キラは差し出されたチケットを見たが、それを受け取らなかった。レイはチケットを机の上に置く。
「演劇のチケットです。これを提示すれば、一番前で見ることが出来ます」
「シンから聞いてない?僕は行かないよ」
キラは静かに言った。レイはまっすぐにキラを見る。
「これはオレの勝手な行動で、シンには関係ありません」
「じゃあなおさら僕には関係ないじゃないか」
「本当に来ないんですか?」
レイは問う。キラはふふふ、と冷たく笑った。
「きみもしつこいね。行かないって言ってるだろ」
レイは思う。シンから何度も話しに聞いている彼と、今目の前で話している彼が、とても同一人物とは思えなかった。シンの言う「キラ」は、年上だけどそうは見えないような雰囲気で、いじわるに、でもとても楽しそうに笑う人らしいのだが。今のキラの瞳は深く冷え切った紫色で、とてもじゃないが楽しそうに笑う顔など想像できない。しかし、レイの知るシンは、事実を言わないこともあるが決して嘘は言わない男だ。
「シンは、あなたが来るのを楽しみにしてますよ」
そう言った一瞬、キラの表情が少し揺らいだような気がした。
「口には出しませんが、あなたが来るときっと喜ぶ」
「僕だって、出来るなら行きたいよ」
「え…?」
冷たいけれど、でもどこか悲しそうに呟かれたその言葉に、レイは驚いて目を見開いた。が、すぐにキラの瞳は元の冷たい紫色に戻る。
「用件はこれだけ?僕、忙しいんだけど」
「シンには、やはりあなたは来れないと、伝えてもいいんですか?」
「…どうぞご自由に」
にこりと微笑むキラの表情は、やはり冷たい。しかしレイは、あのほんの一瞬見えたキラの悲しそうな顔がキラの本音ならば、と、賭けるような気持ちで、チケットは机の上に置いたまま一礼をし部屋を出た。
「シンってば、まだ待ってるの?」
劇の準備のためがやがやと騒がしい体育館の舞台裏で、最終確認をしていたルナマリアが溜息を吐く。シンたちの順番はもうすぐだというのに、シンは未だ現れない。先刻誰かから聞いた話では、校門が見える廊下からぼんやりと外を眺めていたらしい。
「本人が来ないって言ってるんだもの、諦めればいいじゃない」
「わかってるよ」
突如背後から聞こえた聞こえたシンの声に、ルナは驚いて振り返る。シンは足早にカーテンの陰に隠れると、用意されていた衣装に着替え始めた。間もなくして、劇は開幕された。
「…疲れた」
最初の出番が終わり舞台の袖に戻ってきたシンが、開口一番に呟いた。王子役で、まだ出番の無いレイはひとつ溜息をはいてから、シンを手招きする。
「何だよ」
「先日、キラさんとやらに会いに行った」
「え!?」
突然のレイの言葉に、シンは目を見開く。
「なんで、」
「生徒会で予約していた最前列のチケットを渡した。もしきているならば、そこに座っているかもしれない」
「レイ、」
ありがとう、と呟いて、シンはレイと共に舞台の袖からこっそりと顔を出す。スポットライトが舞台を照らしているため、観客の顔を見ることは困難だ。じっと目を凝らして見ていると、シンが突然「げ、」と言った。レイは首を傾げつつもその場を眺める。そこにいたのは、キラではない藍色の髪の男だ。
「知り合いか?」
「まあ、そんな感じ」
袖の奥に引っ込み、力なくシンは笑った。レイの予想ではきっとキラは来ると思ったのだが、しかしキラはこなかったのだ。レイがちらりとシンを見る。シンは大丈夫、と言っているが、どう見ても落ち込んでいる様だった。しかし舞台は進行し、間もなくまたシンの出番だ。
「…シンってば、全然やる気ないじゃない」
舞台を見ながら、ルナマリアがぽつりと呟いた。シンは毒リンゴを食べて、舞台の上で横になっている。
「やっぱりキラさんが来ないから…」
「仕方が無いだろう。出てくれただけマシと思え」
「まあ、そうだけど」
はあ、とルナマリアは溜息を吐く。しかしレイの言うとおりだった。ルナマリアとレイとシンは中学校の頃からの仲だが、シンは舞台に上がったりみんなで力をあわせたり、というのがとても苦手な人間だから、劇に出たのも初めてだし、くじ引きだからといって引き受けてくれたことすら前代未聞のことなのだ。女のルナマリアが悔しがるくらいに、ルナはシンの顔は綺麗だと思っていた。だから今回の白雪姫は絶対にシンにやってもらいたいと思っていたから、レイの言うとおり、出てくれただけマシなのだろうか。
「じゃあな」
レイの出番が来、レイが舞台に上がる。客席から黄色い歓声が上がった。
「やっぱレイは人気ね…」
ルナマリアは呟く。彼女は今回の白雪姫のキャストは完璧だと思っていた。シンは元が綺麗だから、大人しくさえしていればそこらの女子生徒には敵わないし、レイは下級生から女子教員にまで及ぶ人気の王子様なのだ。シンさえやる気を出してくれれば、きっとこの劇は大成功なのに、と思うと、ルナマリアは少し悔しい、と思っていたのだが。
目覚めたシンデレラは、客席のどこかを見て嬉しそうに微笑んだかと思うと、それからはまるで先刻の人物と同じとは思えないほどにシンの演技は完璧だった。舞台の袖で見ていたルナマリアも、一緒に演じているレイさえもがシンの豹変に驚きながら、間もなく劇は終了する。
「シンってば、どうしたの?」
「わからない。突然…」
舞台の袖でレイとルナマリアは言う。レイはふと、先刻目覚めたシンが体育館入り口を見て微笑んだことを思い出し、まだ観客の残る客席を見る。
「…どうしたの?」
「いや、なんでもない」
しかし入り口にそれらしい人物は見当たらなかった。それどころか、ついさっきまでいたはずのシンの姿も見当たらない。
「あら?シンは、」
きょろきょろと辺りを見回すが、シンはどこにもいなかった。袖の奥に隠していたシンの洋服も、いつの間にかなくなっていた。
がらり、と勢いよく扉を開き、シンは中に飛び込む。誰もいない医務室はしんと静まり返っていて、開いた窓の外から生徒達の賑やかな声が聞こえてくる。シンはひとつだけカーテンの閉じられているベッドに近寄った。静かにカーテンを開く。ベッドの上で横になっていたキラが、こちらをみて微笑んだ。
「…来て、くれたんですね」
「似合ってるよ、それ」
それ、と指差された自分の体をみて、シンは自分が白雪姫の衣装のまま着てしまったことを思い出す。
「い、いま着替えます!」
さっとカーテンの外に出、シンは急いで持ってきた学生服に着替えた。それを綺麗に畳むと、シンはまたカーテンから顔を出す。
「具合、悪いんですか?薬飲みますか?」
いつものように微笑んでいるキラだが、その顔色は明らかに悪い。心なしか、息も苦しそうだ。シンはそっとキラの額に触れた。少し熱いが、熱はなさそうだ。
「大丈夫だよ。横になっていれば楽になるから」
「いけないって、こういうことだったんですか?」
「ごめんね」
ひんやりと冷たいシンの手が心地よいらしい。キラはずっと目を瞑っている。
「あ、何か飲みますか?オレ、買ってきますけど、」
「ありがとう。…あ、お金、」
「おごりますよ」
ちょっと待っててくださいね、と言い残しシンは医務室を出た。
「だから無理だと言っただろう」
声が聞こえ、キラは目を開く。頭ががんがんとする。シンだろうか、と思ったのだが、そこに立っていたのはシンではなくアスランだった。
「でも楽しかったよ」
「キラ…」
具合が悪いにも関わらず、それでも微笑もうとするキラに、アスランは溜息を吐いた。「しかし、」と口を開きかけたアスランを、キラは手で制す。
「僕のことはいいから、アスランはカガリ達と遊んできてよ。来てるんでしょ?」
アスランは頷く。今日は久々の休暇だから、といって、カガリやラクスもアスランと一緒に来ているのだ。キラは留守番しているつもりだったのだが、シンのことが気になってつい顔を出してしまったのだ。まさかシンがあの舞台の上から自分のことを見つけるとは、思ってもいなかった。
「お前はどうする?」
「僕はここにいるよ」
シンが自分を見つけてくれた。それが思いのほか嬉しくて、キラの顔がつい綻んでしまう。
「…わかった」
まさかキラがそこまでシンを気にかけているとは思わなかったアスランは、不合理だがつい騙されたような複雑な気分になりながらも、静かに微笑んだ。
「あれ、今誰か来てましたか?」
それから少しの間の後、片手にカキ氷を持ったシンが医務室に戻ってきた。きちんと閉めていたはずの扉とカーテンがほんの少し開いていたのだ。シンは首を傾げる。
「ああ、アスラン」
「…そういえば来てましたね」
客席の最前列で心底楽しそうににやにやと自分を見ていたアスランの顔を思い出し、自然とシンの顔が険しくなる。そんなシンを見て、キラはくすりと笑った。
「僕はあんな人ごみには入れないからね。きみの友達からもらったチケット、アスランにあげちゃった。ごめんね、びっくりした?」
「まあ…でも、キラさんきてくれて、オレ本当に嬉しかったです。あ、これどうぞ」
シンは手に持っていたかき氷をキラに手渡す。カップいっぱいの氷の上に、真っ赤なシロップがかかっている。キラはそれを受け取ると、物珍しそうに眺めてから、嬉しそうに微笑んだ。
「カキ氷なんて久しぶりに食べるよ」
さくり、とスプーンを雪山に刺す。一口食べると口の中がひんやりして心地よい。
「そこの廊下で友達に会って、なんか売り歩いてるうちに溶けかけちゃったらしくって、タダでもらいました」
「おいしいよ」
言葉通り、本当に美味しそうにかき氷を食べるキラを見て、シンはとても嬉しく思った。自分のわがままの所為でキラさんの具合が悪くなってしまったことを気にしていたからだ。シンは微笑むとキラの足元のベッドに腰を下ろす。そして暫く考え込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「あの、キラさん、」
「なあに?」
キラは視線をカキ氷からシンに向ける。シンは不安そうな目でキラを見ていた。キラは首を傾げる。
「オレ…初めてキラさんに会ったときにも言いましたけど…やっぱりオレ、キラさんのことが大好きです」
キラは静かに頷いて、しかし何も言わなかった。シンは続ける。
「オレじゃ、ダメですか?」
しっかりとキラの目を見て放たれるその言葉に、キラの視線は自然と下の方へと移る。視界の隅に移るシンの手が、ぎゅっと握られた。
「オレのこと、嫌いですか?」
キラは首を振る。自分はなんてわがままなんだろう、とキラは思った。シンが自分のことを好きだということを知っているにも関わらず、ずっとこの生温い関係でいたいとキラは思っていた。
「じゃあ、好きですか?」
キラの視線が戸惑うように流れた。首を振ることはなかったが、しかし肯定もしない。
「キラさん、」
シンの声が耳に届く。今にも泣きそうだ、とキラは思う。
「シンは…答えが欲しいの?今すぐに、」
どうして境界を求めるのだろう。ずっとこの、友達でもなく恋人でもない、生温い関係でいてもいいじゃないか。しかしシンは静かに頷いた。キラはぐ、と息を呑んでから、言った。
「もしキミが今どうしても答えが欲しいというのなら、僕はキミとは付き合えない、と言うよ」
「じゃあ今じゃなければいいんですか?」
「時間の問題じゃないんだ」
よくわからない、という顔で、シンは首をかしげた。キラはシンが好きだったし、彼も自分を好きだと言ってくれている。けれどキラは、彼が全てを知った上でまた自分のことを好きだと言ってくれるとは思えなかった。自分を知れば知るほど、きっと彼は自分を嫌いになっていくのだ。彼を悲しませたくはない、けれど、もし今彼を受け入れて後、彼に嫌われることを考えるとキラは素直に彼の気持ちを受け入れることはできない。そんな勇気は、なかった。
「僕のことを知れば、きっと君は僕を嫌いになる」
そんなのは嫌なんだ、とキラは言う。シンは首を振った。
「そんなことないです。オレ、そんな軽い気持ちでキラさんのこと、」
「軽い気持ちだよ」
それでも僕は嬉しいのだけど、とは言わなかった。これ以上彼を悲しませたくはないから。
今にも泣き出しそうだ、とシンは思った。泣きそうなのはキラだ。シンは何も言うことが出来なかった。沈黙の中、がらりと扉が開いてアスランがやってきた。いつのまにか窓から夕日が差し込んでおり、窓の外に見える校門は帰宅する生徒達で溢れている。気付かないうちに学校祭は幕を下ろしていたようだ。
アスランは、黙って俯きあう2人に首を傾げたが、何も言わずにキラをつれて帰った。去り際にキラはちらりとシンを見た。しかしシンは、ぐっと拳を握ったまま俯いていた。
2度目の来訪になるレイが一言「シンがプラントに行きました」と言い去って行ったのは、それから3日経った日のことだった。