03 感果

暗い闇の中で、僕は立ち止まっている。前にも後ろにも道はなく、どこにいけばいいのかわからない。

「なら止まればいい」

声が聞こえる。聞き覚えの無い、けれど確実に知っている。

「道が無いなら止まればいい。視覚も聴覚も触覚も全て放棄して止まればいい。きみにはその素質がある」

声が増えていく。でもそれは全て僕の声だ。

「考えたくないのなら止まればいい。生きるのが嫌なら止まればいい」

ぼんやりと視界が開ける。ここはどこかの研究所だろうか。沢山の人が走り回っているけれど、誰も僕に気づくことは無い。そしてその目の前に並んでいる、沢山の子供。なにかの塊だったそれがだんだんと人の形を成し、そしてバリンとガラスを割って出てくる沢山の僕達。

「きみは誰?」

僕は尋ねる。すると僕の中の一人が言う。

「そんなこと、どうだっていいんだよ。だって僕達は同じものなんだから」

「同じもの?」

そんなはずはない。同じ人間なんて、いないんだから。

「そうだよ。同じ顔、同じ声、同じ能力。同じ遺伝子で作られた同じものだよ。違いがあるとすればひとつ。それはキミだけが成功したということだけ」

ずきんと胸が痛む。

「でもきみは今止まっている。だから、きみと僕達はもう何の違いもない、同じものなんだよ」

目の前の僕達はにこりと笑っている。

「違う。僕ときみたちとは違う!僕の名前は」

「きみにはもう名前なんてないんだよ」

にこにこと微笑みながら僕等は言う。

「だってきみは止まったんだ。ここにはもう、誰もキミを悩ませる人はいない。キミが考えなくても誰も怒らない。キミの名前を呼ぶ人なんて、誰もいないんだよ」

そうだ。僕は今止まっている。僕は逃げたんだ。僕は怖かった。誰も僕を必要としてくれない世界の中で生きていくのが怖かった。

「ここにいればきみはずっと僕等と一緒だよ。向こうの世界にはもうキミを必要とする人なんて誰もいない。きみだってそれがわかっているからここに来たんでしょう?」

僕は頷く。

「じゃあ止まればいい」

ざっと音が鳴り顔を上げる。僕と会話していた僕を残し、そのほかの僕は僕の目の前に道を開けた。そしてその奥には真っ白い1枚の扉がある。

「あのドアをくぐれば、きみはもう僕等の仲間だよ。僕等はきみを歓迎する。さあ、行こう」

僕は頷く。そして手を引かれ歩き出す。

「どうしたの?」

そう尋ねられ、初めて僕は自分が歩き出していないことを知った。

「え、」

僕は嫌だった。あの暴力的な世界が。だから止まったのに、何故僕の足は歩き出してくれないのだろう。

いつの間にか僕ともう一人の僕を残しみんないなくなっていた。扉の向こうに行ってしまったのだろうか。僕も行かなければ、と足を踏み出すが、やはり僕の足は思うように動かない。

「きみはまだ、あっちの世界に心残りがあるんだね」

そう言われ考える。が、何も思い出すことができない。

「思い出せないのかい?よく考えてごらん。きっと何か忘れてるはずだよ」

彼は僕の髪を撫でた。柔らかく温かい。そうだ、この感触は、どこかで一度感じたことがある。

「考えるんだ。早く思い出さないと、」

彼が言うと同時にガタン、と音が鳴り、扉が開いた。僕等は動いていないのに、扉が迫ってくる。僕の足は動かない。

「だめだよ、何も思い出せない!」

「思い出すんだ。大事な、大事なことだよ」

そう言うと彼は泣きそうな顔で微笑んだ。どうしてきみが泣くのだろう。ぽろぽろと涙が落ちてきて、僕は手を伸ばしてそれを拭った。

「どうしてきみが泣くの?」

僕は尋ねる。彼は言った。

「きみが泣いているからだよ」

そうなのだろうか。僕は自分の目元を拭う。濡れている。でも、彼の涙を拭った後だから本当に僕が泣いているのかどうかはわからない。

「頑張って、」

彼は言う。もう扉はすぐそこだ。彼の足が扉の中の暗闇に飲み込まれる。

「無理だよ」

僕がそう言うと、彼はとても悲しそうな顔をした。けれど

「大丈夫」

そう言って微笑むと、両腕で僕の顔をつかんでべろりと僕の頬の涙を舐めた。

「ほら、やっぱり泣いているじゃないか」

彼は笑う。赤い舌。真っ赤な。赤色。

「思い出した?」

彼は微笑み、暗闇に飲まれた。次の瞬間目の前にぶわっと暗闇が襲い掛かる。何も見えない。

「キラ」

その時、誰かに名前を呼ばれた気がした。


「起きろ、キラ!」

名前を呼ばれ、僕ははっと目を開けた。視界が開け、蛍光灯の白い光が目に刺さる。思わずそれを遮ろうと右手を伸ばしたら、誰かにその手をつかまれた。

「よかった…」

さらさらとした髪が手にかかる。誰だろう、僕が体を起こすとそこにいたのは、レイだった。

「…レイ、どうして…」

きょろきょろと辺りを見回す。そこはいつもの僕の部屋で、ベッドの脇には食べかけの食事のトレーが乗っている。皿の上にはあかい人参がひとつ。

「シン、シンはどこ?」

僕はレイに尋ねる。シンに、この部屋には誰も入れないように頼んでおいたはずなのに。

「シンは、」

レイは言い難そうに顔を伏せた。僕は立ち上がり、レイの制止を無視して廊下に走り出る。

「シン!」

名前を呼ぶが、返事はない。はっと気づいてつけっぱなしになっていたパソコンのディスプレイを見ると、僕が止まった日から1週間が経っていた。

「シンはいない」

ベッドに腰掛けたままレイは言う。

「いないって、どういうこと」

僕は尋ねるが、レイは俯いたまま答えない。

「シンは、シンは今どこにいるの!?」

レイの上着の襟首を掴み、問う。レイは初め言い難そうに顔を背けていたが、小さな声で「医務室だ」と言った。


僕はベッド脇に投げ捨てられていた赤服の上着を羽織ると、急いで部屋を出た。後ろでレイが何か言っているような気がしたが、今はそれどころじゃあない。1週間も寝たきりだったから走るたびに体がずきずきと痛むが、気にせず僕は走った。

あの時聞こえた声は確かにシンのものだったのに。先程から嫌な予感が止まらない。まさか、嫌な予感ばかりが頭を過ぎる。

「キラ、こっちだ」

声が聞こえ、僕は立ち止まる。息を切らせたレイが通路の向こう側から呼んでいた。


レイの後について医務室の扉をくぐるとベッドの上で寝かされているシンを見つけ、僕は駆け寄った。

「シン!シン!?」

形振り構わず僕は叫ぶ。だが、シンはぴくりとも動かない。呼吸が無い。まさかと思い首筋に手を当てる。脈拍もなかった。

「…シンも、キラと同じ病気を持っていたらしい」

入り口のところで立ち尽くすレイが、ぽつりと言った。

「そんな、」

「キラが目を覚ますほんの数分前に倒れた」

「だって、だって僕、シンの声を聞いたのに!」

僕は叫ぶ。レイは黙って俯いた。


「オレは、シンが貴方を気にかけていたのは、貴方がシンの仇だからだと思っていました」

レイが静かに話し始めた。僕は驚いて顔を上げる。シンはいつも遠くから僕のことを睨みつけていて、だから僕は、シンが僕を憎んでいるんだと思っていた。過去に僕がしたことを考えれば、それが一番自然だから。だが。

「恐らくシンは、貴方が停滞だということに気づいていたのでしょう」

どうして気づいたかはわかりませんが、とレイは続ける。そうだったのだろうか。けれどこの病気は他に前例がないと言われていて、だから僕はこの病気は僕が人工子宮で生まれた所為だと思っていたのに。

「シンの家族は前戦で死んだと聞いています。オレとシンはアカデミーからずっと一緒でしたが、それ以外にシンのことは何も知りません」

レイは悔しそうに言った。お互いにとても大きな隠し事があったから、だから気が合いいつの間にか一緒にいるようになったのだろうか。シンは、僕がシンと同じ病気だということを知っていたから、だから僕を見ていたのか。

「あと数日でプラントに付きます。貴方はそこでこの艦を降りることになるでしょう」

「シンは、」

「シンは病院に搬送することになるでしょう。それが一番確実です。…貴方は…おそらく議長が出迎えに来てくれているでしょうから、そのまま評議会へ移動します」

貴方は議長の大事な客人ですが、それ以前に捕虜でもあるのですよ、とレイは言う。僕は何も答えずに黙り込んだ。室内がしんと静まり返る。

突然艦内に鳴り響いたアナウンスは、レイに艦長室に来るよう告げた。おそらくもうすぐプラントに到着するのだろう。レイは僕に向かって一礼すると静かに部屋を出た。


「シン、」

呟くが、シンに聞こえるわけがない。停滞している間は、外で何があったとしても本人に意識はまったく無いのだ。さらりと頬を撫でる。この感触さえ、シンは気付かない。









続きは未定。