「…朝か」
窓の外から差し込む光に、シンは目を覚ます。時計を見るといつもより3時間も遅い時刻だが、今日は演習も講習も何も無いから支障はないだろう。いつもの習慣でついごそごそと隣を探るが、あるのは冷たいシーツだけで。
「…そうだ、いないんだった」
眠たい目を擦りながらシンは起き上がる。昨日はなかなか寝付くことが出来ずずっと部屋の片付けをしていたので、室内は綺麗だ。しかしふとベッドの下の方に何かが見えて、シンはそれに近寄った。昨日片付けたはずなのに、もうはや服が散らかっているのだろうか。そっとその布に触れると、それは温かかった。
「…え?」
シンが触れたことによってもぞもぞと寝返りをうったのはいなくなったはずのキラで。ベッドの下の方で膝を抱え込み、倒れこむようにして眠っている。そして何故かいつもの赤服ではなく、整備士用の作業着を着用していた。
「…なんで、」
よくわからないけれど、ぐっすり眠っている彼を起こすわけにはいかず、とにかく普通に寝かせようと思いシンはキラの上半身を引っ張り上げる。もしかしたら起きてしまうかもしれない、と思ったが、キラはすやすやと寝息を立てて眠っている。
「…昼じゃ、なかったのかよ」
静かに眠るキラを見て一瞬躊躇ったが、そのままそっとキラの髪に触れた。いつもは寝起きの悪いキラを起こすためにぐしゃぐしゃとかき混ぜるだけなのだが、今は起こさないようにそっと指で髪を梳く。さらさらと手から滑り落ちる髪が、心地よい。
「ん…」
「やべ、」
キラがくすぐったそうに身を捩るのを見て、シンは慌てて手を離した。
「…あさ…?」
まだ完全に覚醒したわけではなさそうだ。キラはシーツに顔を擦りつけながら尋ねた。
「…いや、違う」
本当は朝だけど、どうやらキラは疲れているらしくシンは嘘をついた。それに今日は1日オフだから、いつまで寝てても支障はないのだ。
「…寝たのか?」
キラからの返事が無くなりまた動かなくなったのでシンは尋ねる。が。
「…起きる」
そう言ってキラは、ゆっくりと起き上がった。
完全に目を覚まし、いつもの赤服に着替えたキラが開口一番に言った言葉は謝罪だった。が、シンには何のことだかさっぱりわからない。むしろ、謝るのは自分だろうと、シンは思った。キラは俯きながら続ける。
「僕、置き手紙するの忘れちゃって…。だって、紙がどこにあるかわかんなかったから、」
「紙ならこの引き出しの中だ」
言ってシンは、机の引き出しの一番上を開く。そこにはメモ書き用のいらない紙が沢山はいっていた。
「前に教えただろ!」
「…そうだっけ?」
おかしいな、と首をかしげるキラを見て、シンは溜息を吐いた。
一体今まで何をしていたんだ、とシンは問う。するとキラは微笑みながら答えた。
「アスランが、キミが僕のこと探してるって教えてくれて、急いで終わらせてきたんだよ」
「…何を」
「シュミレーター」
「は?」
意味がわからない、といった顔でシンはキラを見るが、キラはやはりにこにこと笑うだけだった。
キラに理由を尋ねてみてもシュミレーターとしか答えてくれないので、それならそのシュミレーターを見に行こう、と、シンとキラは訓練場にやってきた。
「すごーい!どうしたんですか?隊長!かなり精度上がってますけど」
「何の騒ぎだ…」
オフだというのにシュミレーターはいつも以上に賑わっており、その中心にルナマリア達を見つけたシンは急いで駆け寄る。
「あらシン、遅かったわね。見てよこれ!凄いのよ!」
指を指されて見てみると、そこにはバージョンアップをしたらしいシュミレーターがあった。今は丁度レイが挑戦しており後ろから画面を眺めるが、反応速度から攻撃の自由度まで、確実に前よりも使いやすくなっている。
「優秀な技術士がいてな。無償でバージョンアップしてくれたんだよ。特に個人訓練用のシステムが向上しているから、各自トレーニングに励めよ」
アスランがそう言って、シンの方を見た。
「優秀な技術士、ですか」
レイが言う。
「ああ。あと半日の仕事を、7時間も早く終わらせるような奴だよ」
そう答えたアスランの呆れたような視線は、シンの後ろでにこにこと微笑んでいるキラを見つめていた。
「なんだこれ、めちゃくちゃむずいんだけど」
その後アスランに言われた通り個人訓練用を試してみたシンだったが、あっという間に撃沈されて文句を言う。文句を言われたキラは、困った顔で答えた。
「だって僕、シュミレーターなんてやったことないから、僕を基準にしちゃって…」
「まさかあんた、ずっとこれ作ってたのか!?」
「だってシンが、強くなりたいって言うから、」
俯きながら答えるキラに、シンは驚きを隠せない。
「…あんた、ずっとこれのこと考えてただろ」
オレの苦労を返せ、とシンは思ったが、しかし結局は自分のためにしてくれたことなのだ。思わず飛び出そうになった文句の言葉を何とか堪える。
「これで、強くなってね」
にこりと微笑みキラが言う。
「おう!あんたを倒すぞ!」
「がんばれシン!」
「…何者ですか、彼は」
よくわからないテンションのキラをシンを遠くで眺めながら、レイはアスランに問う。レイが議長から聞いていることといえば、キラがフリーダムのパイロットで物凄く強いということだけだ。こんな物のプログラムまで出来るなんて初耳である。
「キラは元々、こっちが専門だからな」
「…シンのため、というのはこのことだったんですね」
「そういうことだ」
アスラン自身も、突然キラがやってきたと思うと「シュミレーターの改造していい?」なんて聞いてくるものだから、何事かとかなり驚いたのだ。とりあえず議長に尋ねてみたところ、「壊さないなら別にいいよ」というなんとも簡単な答えが返ってきたので、試しにキラにシステムを見せてみた。するとキラが「これならいけるよ」とあまりに簡単そうに言うので、一応バックアップは取ってから、集中できる環境を作ってやろうとアスランは整備士のリーダーと話をつけ、特別に性能の良いコンピュータと部屋を用意したのだ。まさかシンに連絡せずに来たとは思ってもいなかったから、レイがシンの代理でキラを探しにきたときは心底驚いたものだ。
「だからオレに怒りをぶつけるな、とシンに言っておいてくれ」
「…わかりました」
おらおら沈めーなどと物騒な叫び声を上げているシンとキラを見ながら、レイとアスランは互いに顔を見合わせた。
「手伝いましょうか?」
数日後、重たい荷物を運びながらキラが廊下を歩いていると、後ろから呼び止められる。聞き覚えのない声に首をかしげながら振り返ると、そこにいたのはレイだった。
「レイ、くん?」
キラはレイと話をしたことが殆ど無い。というよりも、シン以外の人間と喋る機会がないのだ。ルナマリアは向こうから積極的に話しかけてくるので一応会話をしたことはあるが、反してレイは殆ど無口で喋らないため、キラは何故レイが自分なんかに話しかけてきたのかが不思議だった。
「ダンボール、持ちます。あなたは紙袋を」
「…ありがとう」
レイはキラが抱えているダンボールを半ば強引に引き受ける。キラの手には2つの大きな紙袋が残った。
「これは何ですか?」
意外と重たいダンボールを見て、レイが尋ねる。ダンボールには蓋がしてあり中は見えないが、キラが持っている紙袋を見る限りではそれはどうやらビデオテープのようだった。
「シンがね、強くなるって頑張ってるから…参考になるものを、と思って」
「戦闘記録、ですか」
「そうみたい」
それにしてもこの量はいささか多すぎではないのだろうかと、レイは両手にずしりとのしかかってくるダンボール箱を見た。それに、ただの赤服であるキラにこんなに沢山の戦闘記録の閲覧許可が出るなんて思えない。そう思いキラを見ると、キラは静かに微笑んで答えた。
「アスランに頼んだら、沢山持って来てくれたんだ」
「なるほど」
アスランならば、講習という目的で戦闘記録などいくらでも借りることができる。キラのためにそこまでやってのける自分の隊長に、レイは少しだけ驚いた。
「…あなたと隊長は、どういう関係なんですか?」
「僕とアスラン?」
知り合いや友人というには、あまりにアスランが常軌を逸している。しかしキラはきょとんとした顔で答える。
「幼馴染だよ」
「幼馴染、ですか」
アスランがキラのことをどう思っているかは置いておいて、キラ自身にしてみれば、アスランはただの幼馴染らしい。レイは少しだけアスランを不憫に思った。
暫くは会話もなく、ただただ歩いていた。レイは元々無口な性格だし、キラもどちらかというと受身なタイプなので、自ら話しかけるということはあまりしないからだ。この廊下は普段人の通らない場所で、レイとキラ以外に誰もいない。
「…貴方に、聞きたいことがあります」
今日を逃したら、もうチャンスはないかもしれない。そう思い、レイは尋ねた。
「何故あなたはシンを選んだのですか」
「…どうして?」
キラは首を傾げた。レイは続ける。
「失礼ですが、あなたについて少し調べさせてもらいました。あなたには未だ、隊長やラクスクライン、2年前に共に戦った沢山の仲間が、身内と呼べるくらいに親しい仲間がいるじゃないですか」
しかしシンには誰もいない。キラは静かに頷いた。
「…そうかもしれないね」
「あなたはそれを全て捨てて、シンを選んだのですか?」
そう問い、レイはキラの方を見た。キラはいつものぼんやりとした表情とは違う、とても静かな顔つきをしていた。綺麗だが、どこか寂しい。
「…僕はね、ひとりなんだ」
暫くの無言の後に、キラは静かに口を開いた。
「どういう、」
「そのままの意味だよ。いくら僕を慕ってくれる仲間が沢山いてもね、僕はいつもひとりなんだ。…キミなら、わかると思ったけど、」
「それは、」
キラは何を知っているのだろうか、とレイは思った。同時に、キラは一体何者なのだろう、とも。しかしそんなレイを他所に、キラは静かに語りだす。
「僕はね、僕を求めてくれる誰かが欲しかった。僕だけを求めてくれる、誰かが欲しかったんだ。でも、僕だけを求めてくれる人は誰もいなかったよ。だから僕は、あれから1年くらいはずっと一人で静かに暮していたんだけど…少し前にね、知り合いにシンのことを聞いたんだ」
「え?」
「僕のことを憎んで憎んで、殺したいからザフトに入った子供がいるって。僕は嬉しかったんだ。彼は僕だけを求めてくれている。だから僕はそれから半年かけてシンのことを調べたよ。そして、シンに会いに来た」
レイは黙って聞いていた。観念的な言葉が多すぎて全てを理解できたわけではないが、シンに対するキラの、強すぎるその思いは伝わってくる。
「本当は、会ったその日に殺されてもよかったんだ。でもシンはやさしすぎて、それが出来なかった」
「もしシンが、あの時あなたを拒否していたら」
「そのときはストーカーにでもなってたかな」
くすり、と笑ってキラは答えた。
「冗談だけどね。…シンは僕を受け入れるよ」
「何故そう断言できるんですか」
「彼にはもう、僕しかいないから」
これは事実だ。キラは思う。やさしいシンは、僕に騙されて僕を受け入れる。可哀想なシン。だがキラは、シンに好きになってもらいたいとは思わなかった。嫌われてもいいから、どんなに卑怯で強引な手を使ってでもシンと一緒に居たかったのだ。
「僕はね、シンが大好きなんだ。だから、シンが強くなりたいと願うなら、いくらでも戦闘記録を探すし、僕を倒すというのなら、いくらでも相手をするよ」
キラは言う。
「彼が死ねば僕も死ぬし、彼が生きているうちは絶対に彼を殺させない」
「…矛盾、してますよ」
「うん」
レイの指摘すらどうでも良いというようにキラは答える。矛盾しててもなんでも、シンがいるならどうでもいいのだ。シンさえいれば、自分は生きていけるのだから、とキラは思う。
キラの話を聞いて暫く黙っていたレイが、言い難そうに静かに口を開く。
「…自分は、初めてあなたを見た時から、関わりたくないと思っていました」
やはり、とキラは思った。レイから向けられる視線は、敵意ではないがそれでもあまり心地よいものではないと感じていたからだ。だからこそキラは、レイが今日話しかけてきたことが不思議でならなかった。
「あなたは確かにオレと似たような存在なのかもしれない。けれどオレと貴方は違った。オレは、貴方のように全てを他人に捧げることなど出来ない」
それは自分だけでなく、全ての人間がそうだとレイは思う。だからこそキラの言葉が信じられないのに、キラを見ていると何故かそれすらも疑えなくなってきてしまうのだ。
キラは静かに微笑んだ。レイの顔を見ていたが、しかしキラが本当にレイを見ているのかすらもわからない。キラが立っているのは、本当に細い細い糸の上だとレイは思った。普通の人間ならば確実に踏み外してしまうその糸を、彼は踏み外すことなく歩き続けている。自分がキラを恐れるのは、きっと彼の立つ場所が危険なものだとわかっているからなのだろう。しかしシンはきっともう、その糸の上に立ってしまっている。
ふと顔を上げると、いつのまにかシンの部屋に到着していた。長い廊下だったはずなのに、レイにはそれが物凄く短い時間に感じられた。
「遅いぞ!」
「ごめんなさい」
部屋につくと、既にシンはご立腹だった。シンとキラが一緒にいるところを見るのは初めてではないが、レイはキラの、先刻とは違うあまりにも嬉しそうなその顔に、とても驚いた。怒られているはずなのに、キラはどこか嬉しそうに微笑んでいる。
「怒るな、シン。オレが立ち話をさせてしまった所為だ」
「え、レイ?なんで、」
どさりと床にダンボール箱を下ろす。どうやらシンはキラしか眼中になかったらしく、突然現れたレイを驚いたように眺めた。
「そこでばったり会ってね、運ぶの手伝ってくれたんだよ」
「へぇ、サンキューな」
「いや」
言いながらシンはごそごそとダンボール箱を漁る。意識はもう戦闘記録の方に行ってしまっているらしい。キラが紙袋の中身をベッドにぶちまけると、そちらの方にも手を伸ばした。
「まずは打倒隊長だ!」
「がんばれシン!」
よくわからないテンションだ、とキラは思う。子供のようなシンの反発にキラが苦労しているとばかり思っていたのだが、兄貴体質のシンと末っ子体質のキラは、案外相性は良いらしい。
「まあ頑張れ」
レイは溜息を吐いた。
「レイくんも一緒に見る?」
キラがビデオテープを探りながらレイに尋ねる。しかしそれは瞬時にシンによって却下された。レイまで強くなったら、自分が強くなってもわからないからという理由らしい。
好みのビデオを見つけたらしく、シンは早速机に向かう。布団の上に散らばったビデオを見て、このままだとベッドが使えないのではないかとレイは思ったが、もしそれを指摘すればこの2人のことだから「じゃあ片付けて」と言うことになりかねないので、早々に退散してしまおうとレイは思った。
「じゃあオレは失礼する」
「うん、じゃあね」
シンの方はもう映像に夢中になっているらしく、レイの声など届いていないようだった。キラがにこにこと微笑みながら、戸口まで見送ってくれる。
そういえばシンの笑った顔を見るのも久しぶりだな、とレイは思った。アスランには悪いが、キラとシンが出会えてよかったと、そう思えてやまなかった。