「アスカ先輩が、好きです」
と、かわいらしい、うすいピンク色のちいさな唇が動いた。短いスカートの裾が、春の風にふわふわと揺れる。
放課後の裏庭、かわいらしいちいさな女の子の、僅かに期待を孕んだ表情。男ならば誰しもが浮かれ喜ぶこの状況に、しかしシンは、とても冷静にそれを見ていた。
シンにはかつて好きな人がいた。もう随分昔、小学校の高学年くらいからずっと好きだった人だ。茶色い髪がいつもさらさらと揺れていて、笑ったり怒ったり忙しそうな人だった。毎日のように一緒にいて、喧嘩をすることはあったけど隠し事をすることは一度もなかった。4年前の出来事。
「ごめん、オレ彼女いるから」
シンがそう言うと、少女はゆっくりと俯いて言った。
「ルナマリア先輩、ですか?」
少女は言う。シンは頷いた。尋ねる前から少女はわかっていたらしく、さして驚くことはなかった。
「噂は本当だったんですね。お似合いだって、みんな言ってるし…。突然こんなこと言ってすみませんでした」
少しだけ濡れた瞳を伏せて頭を下げた少女は、ぱたぱたと走り去ってしまった。よくある、見慣れた光景だ。それなのにシンは、その少女から視線が離せない。
少女が走り去るたびにさらさらとした茶色い髪が揺れて、シンはずっとその後姿を見つめていた。
「突然呼び出してごめんね」
「別にいいけど、」
学校の近くにある公園にシンを呼び出したルナマリアは、深刻そうな眼差しでシンを見た。五月の末。やわらかい陽射しと、冷たい風が頬を刺す。
「それで、話って何」
尋ねるがルナマリアはブランコに腰掛けたまま、もじもじと言い難そうに指先でスカートの裾を掴んでいた。何事も真っ向からズバズバと攻めていく彼女にしては珍しい行為だと、隣のブランコに座っているシンは思った。ルナマリアは暫くの間戸惑うように瞳を上げたり下げたりしていたが、やがて決心がついたらしく立ち上がり、隣のブランコに腰掛けるシンの前に立ち言った。
「私、好きな人が出来たの」
言って、ルナマリアは恐る恐るといった様子でシンの顔を窺った。シンは何も言わなかった。驚きのあまり言葉を失ったわけではない。頭のどこかで、こうなることは予想していた。
「…じゃあ別れるか」
暫くしてシンが静かにそう言うと、ルナマリアは「ごめんね」とだけ言って走り去っていった。
「しっかしお前等が別れるなんて以外だなあ。結構お似合いだったのに」
本当か嘘かはわからない、にやにやと笑いながらヨウランは言った。
その後たまたま暇をしていたヨウランと合流したシンは、通りに面したコーヒーショップに入った。行き交う人々をぼんやりと眺めながら、シンは言う。
「別に、そんなことない」
ルナマリアとは学校が同じなため殆ど毎日会っていたが、しかしデートらしいことなど数える程しかしたことがなかった。クリスマス等の行事だって、面倒だからといってシンは全く参加しようとはしなかったのだ。
ルナマリアと付き合うことになったのは、ちょうど1年程前のことだった。近所に住む1つ上のルナマリアは幼馴染で、小さい頃からよく一緒に遊んでいた。小学校も中学校も同じで、高校もルナマリアと同じだということがわかったとき、彼女はとても喜んでいたのをシンはぼんやりと覚えている。その直後、ルナマリアに告白されたのだ。
一年と、言ってしまえばきりが良いが、要はタイミングの問題だったのだとシンは思う。今日別れたのだってルナマリアに好きな人が出来たからで、それがなければまた以前と変わらない、ぐだぐだなまま続いていたのだろう。そう考えれば、今日ルナマリアが別れを切り出してくれたのはむしろ良かったことなのかもしれない、とシンは思う。が、しかし。
「好きな人、か。誰だろうな?」
ヨウランが、シンの心を見透かすかのように言った。
確かに彼女に関してはマメな方ではないシンだが、何分顔の造りが整っているため、それこそ昨日の少女のようにシンに告白しにくる女子生徒は後を絶たない。ルナマリアだって、「シンの顔が好きなの」みたいなことを言っていたのに。
そんなルナマリアが、自分よりも好きだと言った男。実際シンは、かなり気になっていた。
「ルナとは殆ど一緒にいたけど、それらしい男はいなかったぞ」
「じゃあうちの生徒だな。多分年上」
ヨウランは予め用意していたであろう答えを口に出した。シンとルナマリアは学年が違うから、昼休みと放課後以外、校内でルナマリアが何をしているのかなど殆どシンは把握していない。部活には入っていないはずだから、もしかしたらクラスメイトだろうかとシンは思う。だが昨日までのルナマリアは、一時たりともそんな素振りを見せることはなかった。
「シン?大丈夫か?」
じっと考え込んでいたシンの顔を、ヨウランが覗き込む。シンが驚いたように顔を上げるのをみて、ヨウランが笑った。
「なんだ、お前でも振られてへこんだりするんだな」
「別に、へこんでるわけじゃない」
じゃあなんだよ、というヨウランの問いに、シンはつまらなさそうに答えた。
「…ただ、次からは彼女いるからって理由で告白断れないなって思って」
「お前なぁ」
呆れ顔でヨウランは言う。
「好きだから付き合ってたんだろ?なのに突然振られて、悲しいとか悔しいとかないわけ?」
ヨウランの言葉は正しい、とシンは思う。しかし何故だかシンは、それを悲しいとか悔しいなどと思うことはなかった。確かに付き合い始めた頃は、彼女のことを好きだと思っていたのに。シンは首を傾げる。
「…わからない」
あの頃も今も、彼女に対する気持ちは何一つ変わっていないと思っていた。変わってしまったのは、ルナマリアの方だと思っていたのに。
今シンに言えるのは、この一言だけだった。
窓は全て閉じているはずなのに、ざあざあとうるさい雨音が何所かから室内に入り込んでくる。シンはそれが鬱陶しくて、カーテンを閉めようと立ち上がった。
ここは生徒会室だった。シンは役員ではないが、今日一緒に帰る約束をしている生徒会のレイを待っているためこの部屋にいる。レイは先刻からずっと職員室に出かけてしまっていて、シンは手持ち無沙汰にソファーに座ったり寝転がったりを繰り返していた。
ルナマリアとは、まだ顔をあわせていない。
昼間から振り続ける雨は、未だやむ気配を見せない。シンは傘を持っていないので、レイを置いて先に帰ることは出来ないから渋々ここで待っているのだ。授業が終わってから、もう1時間以上も経っている。先刻まで聞こえていた廊下からの声が、いつの間にかひとつも聞こえなくなってきた。ただ雨音だけがなっている。
カーテンに手をかけたシンは、丁度玄関を出たばかりの一組の男女を発見した。濡れたグラウンドに映える、赤色の傘。ルナマリアの傘だ。気まずいものを見てしまったと思い、シンはカーテンを閉めようとした。が、ルナマリアの隣を歩く男の後姿を見て、気付けば走り出していた。
「キラ!」
傘も差さずに生徒玄関から飛び出す。生徒会室は玄関から近いため、彼らはそれほど遠くまで行っていなかった。
「シン!?」
ルナマリアが驚いたようにこちらを振り返った。雨は酷く降り続いている。いつもはふわふわと跳ねているシンの髪は、真っ黒に濡れて垂れ下がっていた。
「シン、どうしたの、傘も差さないで…」
ルナマリアが言うが、シンは何も答えなかった。おそらくルナマリアの言葉など届いていないくらい、シンはただじっとその男を見ていた。シンよりも僅かに高い位置にある、茶色い髪。その髪が、さらりと動いた。男は振り返る。
「…シン?」
小さく聞こえた声に、シンの心はどきりと鳴った。間違いない、キラだ。
「うわぁ、久しぶり、シン。4年ぶりだね」
4年ぶりに見たキラは、以前と何も変わっていなかった。さらさらとした茶色い髪、深い紫色の瞳に、やさしい笑顔。少しだけ高い身長も、あの頃から何も変わりはしない。
「…久しぶり、キラ」
消え入りそうな声でシンは、静かにそう言った。