ちらりと時計を見、オレはため息を吐いた。先刻キラを呼びに行ってからもう30分が経過しているが、しかしキラは一向に姿を表さない。仕方が無いから渋々キラの部屋まで訪れると、ベッドの上で30分前とまるで同じ体勢をしている、キラと目があった。
「あんた、ふざけてんのか」
オレが静かにそう言うと、しかしキラは小さく首を傾げこちらを見た。こちらを見ている、けれど、しかしその目はオレではない、別のところを見ているようだ。ちらりと部屋の中を見回すが、やはりキラがベッドから出たような痕跡は見当たらなかった。
「もう出かけるって言っただろ。なんで着替えないんだよ」
「でも、どれに着替えればいいのかわからなくて…」
「んなもん自分で考えろよ」
しかしキラは首を傾げるだけでベッドから出ようとはしなかった。昔はこうではなかったはずだ。昔といっても、ほんの数ヶ月前の話だけど。戦争が終わり、ザフトにいられなくなったオレは当然プラントに居ることも出来ず、ラクスクラインに支援してもらう形でオーブに戻ってきた。そして何のお咎めも無しにザフトから出られるよう話をつけてくれたラクスクラインのお願い(という名の強制)は、オーブでキラヤマトと一緒に暮らすということだった。キラヤマトとは、オーブの慰霊碑の前で2度会っている。一度目は少しだけ会話をして、二度目は握手を交わした。キラはいつも、静かに笑ってるだけだった。けれど最近では、そんな顔すら見ていない。
ちらりとキラを見ると、こちらを見ていたキラと視線が合った。キラは何か言いたそうにじっとオレの瞳を見る。
「何だよ」
「…でも昨日のシンは、着替えを用意してくれたよ?」
「なん、だと?」
「今日のシンは怒ってばかりだ」
そう言ったキラの顔は至って真面目で、オレはただ一人、静かな危機感を感じていた。
一緒に暮らし始めてから数週間は、キラヤマトはオレに気遣うようにいつも沢山物を買ってきたり、海岸沿いの孤児院に連れて行ったりしてくれた。その頃のオレはまだ何も信じることが出来なくて、ただキラに当り散らしてばかりだったけれどキラは笑いながらそれを受け止めた。そのうちオレは平和な世界を受け入れられるようになり、アスハの薦めでモルゲンレーテで働くことになった。キラはキラで何か仕事をしているようだったから、その日からオレは殆どキラと顔を合わさなくなった。そして数週間後、忙しさのあまり泊り込みが多く、久々に自宅に戻るとそこは以前とまるで変わりがなく、その日テーブルに乗せて置いたカップさえも変わらずその場に佇んでいた。オレは急いでキラの部屋の扉を開ける。キラはベッドに倒れこんでいた。医者の話では、ここ数週間何も口にしていないとのことだった。
キラが入院している間もオレには仕事があって、殆ど見舞いに行くことが出来なかった。すると医者から突然電話があり、今度はキラが喋らなくなったと言い出した。さすがにそれはまずいと思い、オレは仕事を辞めてキラを家に呼び戻した。
「シンが2人いるんだ」
キラは静かに話し始めた。
「…オレが、2人?」
「昨日のシンは、やさしかった」
キラの瞳がオレを見る。が、やはりそれは確かなものではなくて、言うならばまるでオレではないもう一人のオレを見ているかのようだった。オレはばん、と壁を叩き、言う。
「オレはオレだ!昨日も今日も変わらない、」
「昨日のシンも、そう言ってたよ」
キラはじっとこちらを見ている。その目は決してオレを疑っているような目ではなく、かといってもう一人の(昨日の)オレを疑っている感じもしなかった。それは多分、キラの中では本当にオレが2人いて、キラの中ではそれが真実なのだろう。
「…じゃああんたは、どっちのオレを信じるんだよ」
キラは一瞬驚いたような顔をしたが、何も答えなかった。
オレはキラのことが大嫌いだった。オレは今までキラに沢山のものを奪われてきたし、おそらくオレは今後も一生、こいつの面倒を見て暮らさなければならないのだろう。そしてその事実をキラも理解していて、時折本当に申し訳なさそうな瞳でオレを見てくるようなところも大嫌いだった。あれほど強大な力を持っていたのに、あれほど苦労して戦ってきたのに、平和な世界ではなんにも出来ない、そんなところが大嫌いだ。それなのに、こいつがただオレを信じないと言った言葉が、何故こんなにも悲しく感じるのだろう。
キラはオレの知らない昨日と今日の間の日に、もう一人の優しいオレと一体何を話したのだろうか。昨日のオレは、どういう風に彼に接したのだろう。優しいオレなら、なんの躊躇いもなくこの今にも壊れそうな身体に、触れることが出来るのだろうか。
「シン、シン…大丈夫?」
キラの手が、そっとオレの頬に触れた。薄い皮膚を通して伝わってくる体温に、オレは目を閉じる。もしオレがもう少し優しければ、もっと早くこの手の細さと暖かさに気付くことができたのだろうか。もっと早く、彼の悲しみに気付くことが出来たのだろうか。
「大丈夫、だよ」
「僕、ちゃんと着替えできるようになるから、怒られないようになるから…だから僕のこと、見捨てないで」
「え?」
薄いのにどこまでも深い紫色の瞳が、じっとオレの目を見る。昨日ではない、今ここにいるオレを。
「もう僕には、きみしかいないから」
「…見捨てるわけないだろ」
オレは小さくそう言ったが、しかしキラは儚げに微笑むだけだった。キラは知っているのだ。人はすぐに約束を忘れてしまう。必死に誓った言葉だって、時間には決して勝てないのだ。だけどそれは仕方の無いことで、オレたちはそれを言葉にする以外の方法を知らないから、何度も何度もそれを繰り返すのだ。
「…オレだってもう、何もないんだから」
大事なものを全て失ったオレと、まだ在る大事なものに見捨てられたキラはどちらが可哀想なんだろうか。
その日以降キラは一度もあの優しいオレの話をしなくなった。あれがただの夢だったのか、もしくはオレがキラの夢なのかはキラにしかわからない。
キラは約束通りきちんと自分で着替えをするようになった。食事も少しだけなら食べてくれるようになったし、自分から起きるようにもなった。けれどやはりまだ一人で外を歩くことは出来なくて、外に出るときはいつもオレが一緒に付き添ってやっている。オレとキラは今は一応モルゲンレーテの臨時社員として働いていて、1日ほんの数時間だがモルゲンレーテを訪れている。昔の仲間を前にするとキラはまだどこかうそ臭くてぎこちなかったが、それでもまだ会話が出来るようになっただけ立派な方だろう。
「おい、早くしろ!置いてくぞ」
「ま、まって、今行くから、」
どたばたと足音が響き、そして漸くリビングの扉からキラが現れた。キラは以前のようにとまではいかないが、それでも前までの無表情とは違い、ほんの少しだけ笑えるようにもなった。
けれどオレにはまだ、やさしい言葉を信じることは出来なかった。だってキラの仲間たちだって、やさしい言葉を吐きながらそれでも一度もキラに会いにも来ないじゃないか。
「ご、ごめんなさい、」
「いいから早く行くぞ」
オレはもう既に靴を履き終えており、たった今リビングから出てきたキラに向かって靴を放り投げた。キラはそれを受け取ると、慌てて履き始める。
それでも。もしキラがまだ、やさしい言葉を信じてるというのなら。
「今日はいつもより早く出れたし、」
「え?」
キラは首を傾げて時計を見た。そして不思議そうにオレの顔を見る。当然だ。いつもより早く出たというのは嘘で、本当はもう30分もオーバーしている。けれどそんなことはどうだっていいのだ。オレは小さく咳払いをし、また仕切りなおす。
「いつもより早く出れたし、ちょっとお腹もすいたから、…アイスクリームでも食べに行くか」
「…!」
「嫌か?」
反応の薄いキラに向かいそう尋ねると、キラは未だ驚きに満ち溢れた顔でぶんぶんと首を振った。
「い、行く!」
嬉しそうに微笑むキラを見て、ほんの少しだけオレも嬉しい気分になる。
やさしい言葉なんて大嫌いだけれど。あの日現れた優しいオレはキラの夢で、キラがもしオレの優しい言葉を欲しがっているというのなら。ほんの少しだけ、少しだけなら与えてあげても、いい。