あの日触れた彼の手が、その暖かな笑顔とは対極に酷く冷たかったことを覚えている。
「あら、キラってば遅いですわね…」
スプーンを片手にそう呟いたラクスの視線を、必死に逸らそうとオレは皿の中のスープを凝視した。ぷかぷかと浮かぶクルトンを無意味にスプーンでつついていると、はあ、とため息が聞こえ思わずオレは顔を上げてしまう。
「様子を見てきてくださいませんか?」
にこりと微笑みながらそう告げるラクスの視線は、確実にオレの方を向いていた。それもそのはず、今この広いテーブルにはオレと彼女の2人しかいないからだ。
「…わかりました」
有無を言わさぬその視線に耐え切れずオレが静かに席を立つと、彼女はにこりと微笑んだ。
ここはオノロゴにある孤児院だ。しかし孤児はいない。マルキオという人が、この屋敷よりもっと海岸近くに新しく大きな小屋を建てたので、皆そこで暮らしている。この屋敷にはオレとマリューさんとバルトフェルドさんとラクスクライン、そして、キラヤマトの5人が暮らしていた。しかし最近はマリューさんもバルトフェルドさんも仕事が忙しいらしくモルゲンレーテから帰って来ず、ほぼ3人暮らしのようなものだった。そしてラクスクラインは日中はずっと孤児院の方に行っているので、オレはいつも一人でこの屋敷の掃除をしたり、洗濯をしたりしているのだ。
キラヤマトの顔は、殆ど見たことがない。
彼の部屋の扉が開かれるところも見たことがないし、彼の姿そのものもここ数日は見ていない。あの日慰霊碑の前で見た彼の笑顔ですら、真実かどうかが疑わしいくらいに彼とは対面がなかった。覚えているのは、あの冷たい温度だけだ。
トントン、と扉をノックすると、小さく返事が聞こえた気がした。しかし待てども一向に扉は開かないので、オレは大きすぎない声で「夕食の準備出来てますけど、」と言った。返事はない。
「あのー、」
尚も呼びかけると、漸く扉のノブが回った。
「…ごめんね、今日は夕食いらないからって伝えてくれるかな」
ほんの少し開かれた扉から見えたのは、少し顔色の悪そうなキラヤマトの顔と、そして真っ白な壁と真っ白なベッドだけだった。真っ白なベッドの上には、オーブの軍服が放り投げてある。オレが何も言わずにじっと扉の隙間を覗いていると、キラヤマトが「シンくん?」と言った。オレがはっと顔をあげると、彼はいつものように暖かな笑顔で微笑む。
「わざわざ呼びに来てくれたのに、ごめんね。…あ、ちょっと待って、」
そう言うとキラヤマトは半分だけ開かれた扉はそのままに、室内に入っていってしまう。オレはどうすれば良いのかわからずに、ただ扉の前で立ち尽くしていた。間もなくして、キラヤマトが戻ってくる。
「これ、今日モルゲンレーテでもらったんだ。よかったら食べて」
そう言って手のひらに転がり込んだのは、赤い包みに包まれた飴玉だった。オレがぼんやりとそれを眺めていると、キラヤマトは困ったように首を傾げる。
「…いちご味なんだけど…もしかして、違う味の方がいいかな?」
オレは慌てて首を振った。するとキラヤマトは「よかった」と言って微笑んだ。
尚も呆然と立ち尽くしているオレの手を、キラヤマトは引っ張り室内に連れ込んだ。オレは自分でもよくわからないけれど、何も言わず彼の後に続く。
彼の部屋は先刻隙間から見えた通り、真っ白い壁紙と真っ白なシーツが印象的だった。フローリングの床の上には、銀色に光るノートパソコンが転がっている。
座る場所がなくてごめんね、と言ってキラヤマトはオレをベッドに座らせた。自分もその迎え側に座り、そしてベッドの上に転がっているオーブの軍服を手繰り寄せるその長い指を、オレはじっと見ていた。
指は軍服のポケットの中に入った。そして中から何かを取り出すと、白いシーツの上にばら撒いた。色取り取りの紙に包まれた飴玉だった。
「さっきのいちご味は赤色だったけど、こっちの方が綺麗な赤だね」
そう言ってキラヤマトは、ばら撒かれた飴玉のうちのひとつ、先刻のいちご味の包み紙よりさらに赤い色をした飴玉をオレの方に寄越す。オレは先刻受け取ったいちご味の飴玉をその隣に並べた。
いちご味の方は赤く見えたが、どちらかというとピンク色だったらしい。じゃあこの赤色は何味なのだろう、と首をかしげていると、キラヤマトが「これはりんご味だよ」と言った。
「りんごって白いから、赤いイメージがあまりないね」
キラヤマトは指先で飴玉を玩びながら言う。
「りんごは赤いですけど、」
オレがそう言うと、キラヤマトは首を傾げた。
「でも食べるときは白いよ」
「オレは皮ごと食べるから、」
へえ凄い、とキラヤマトが言った。何がどう凄いのかよくわからないけれど、オレはただ頷いた。
「これは何味ですか」
オレは緑色の包み紙を指差した。メロンだろうか。しかし緑色の包み紙の隣に黄緑色の包み紙もある。おそらくそれがメロンだろう。キラヤマトが「それはスイカらしいよ」と言った。オレが「ああ」と納得すると、キラヤマトは「キミはスイカの皮も食べられるの?」と尋ねてきた。オレが慌てて首を横に振ると、彼は「それもそうだね」と言って笑った。暖かい笑顔だった。
オレはふと思い出したように彼の手に触れた。キラヤマトは驚いたようにオレの顔を見たが、オレは気にしなかった。
「…冷たい」
オレがそう言うとキラヤマトは「血行が悪いんだよ」と言った。本当かどうかはわからないが、それなら少し納得できるかもしれない。オレの手はいつも暖かくて、子供みたいだと誰かに言われたことがある気がする。覚えてはいないけれど。
オレがずっとその手を離さずにいると、彼はどうすれば良いのかわからないというようにこちらを見ている。こうやってずっと握っていれば、もしかしたら彼の手も暖かくなるかもしれない。暖かくとまではいかなくても、冷たい手と暖かい手の中間くらいにまではなるかもしれない、とオレは思う。
空いた方の手で赤い飴玉の包み紙を開いた。それを口の奥に放り込み、奥歯で噛み砕く。じわじわと甘味が口の中に広がってきた。
するり、と握っていた手がなくなって、オレは顔を上げた。困ったような顔をしているキラヤマトと目が合った。
「きみまで冷えちゃうと困るから」
キラヤマトはそう言った。オレは頷いた。
キラヤマトが差し出してきた色々な色の飴玉をオレは断り、彼の部屋を出た。彼の部屋のベッドに軍服があったということは、彼はオーブの軍人として昼間は働いているのかもしれない。
あれから数日経つが、あの日以来また彼の姿は見かけなくなってしまった。この屋敷は3人で暮らすには広すぎて、誰かが出かけても帰ってきても、気付きにくいのだ。夕食も部屋で食べているらしく、あの日以来テーブルから彼の分の食器が並ばなくなっていた。もしかしたら、モルゲンレーテの工場で何かご馳走になっているのかもしれない。
きっと忙しくてもどって来れないのかもしれないですわね、とラクスクラインが言ったが、オレは首を振った。オレにはわかっている。
あの日以来毎晩オレの部屋の扉の下には、赤い紙につつまれた飴玉が転がっている。お礼に皮のついた林檎を置いておいてあげようかとも思ったが、彼が林檎を皮のまま噛り付いている姿が想像できないからやめておいた。