・キラ→謎の不登校児
・シン→キラと同じクラスの生徒
・不登校キラがシンと仲良くなる話



海 底

6月半ばの朝早く、オレは一人校内を歩いていた。教室に向かっているところだ。部活動の所為で朝早くから学校に来なければならないのだが、バスの都合上集合時間よりも幾分早くついてしまったからだ。まだ部室の鍵も開いていないため、教室で時間を潰そうと思ったのだが。

がらりと教室の扉を開くと、中に見慣れない生徒がいることに気がついた。教室の一番後ろ、窓際の机の中を黙々と漁っている。制服は同じだけれど、見たことのない顔だった。しかし胸元のバッジはオレと同じ、赤色に耀いている。

「…なにやってんの、あんた」

オレが話しかけると、男はびくりと肩を震わせて顔を上げた。さらさらとした前髪は長くて、顔がよく見えなかったが整った顔立ちだと思う。男は机の中からプリントの束を取り出すと、急いでそれをカバンの中に詰め込んだ。オレの質問には答えずに、カバンを掴むと反対側の扉に向かって歩き出す。

「ちょ、待てって」

オレは慌てて男の腕を引き止めるように掴んだ。ぐ、と引っ張ると同時、ばちんと音が鳴り右頬が痛んだ。抵抗する力はとても弱く、叩かれた頬もそれほど痛いというわけではないが、しかし意味がわからない。

「痛っー…何すんだよ、」

男の腕を掴んだままその顔を睨みつけると、男はとても驚いた顔をしていた。驚いたのはこっちだよ、と思いながら、その場に座り込む男の手を引き上げる。が、その手が、体が震えていることに気付き、オレは慌てて男の顔を覗きこむ。

「?…おい、」

何がなんだか意味がわからない。そっと男の前髪を避け顔を覗きこむと、男は予想外に大きな瞳からぼろぼろと涙を溢れさせ震えていた。

「ごめ…ごめんなさい…」

「いや、別に大丈夫だけど、」

嘘じゃない。男の力は本当に弱くて、痛みなどもうとっくの昔に消え失せてしまっている。大丈夫だから、と男を立ち上がらせようと腕を引いてみるが、男はただ首を振るだけで立ち上がろうとはしなかった。

部活はとっくに始まってしまっているし、もうそろそろ他の生徒も登校してくる頃だろう。事情がどうであれ、この状況を見られるのは得策ではない。

「あー、もう!」

思い切り強く腕を引くと、痛みに耐え切れなかったらしく漸く男は立ち上がった。オレは男が床に落としたカバンを持ち、そのまま男の手を引き廊下に出た。


保健室、と書かれた扉をノックすると、間もなくして返事が返ってくる。オレは急いで扉を開くと、男を中に押し込めてから自分も部屋に入った。

「ほお、珍しい組み合わせだな」

保健室のソファーに腰を下ろしながら、この学校の保険医であるフラガ先生が言う。部活で怪我ばかりしているオレは次第に彼と仲良くなり、部活で疲れて寝不足な時とかはいつもベッドを貸してもらったりしている仲だ。彼はいつものようにグラビア雑誌を読みながら、珍しそうにこちらを見ていた。

「え、あんたこいつ知ってんの?」

予想外のフラガの言葉に、オレも驚く。

「知ってるもなにも…お前のクラスメイトだろ」

「…は?」

信じられないフラガの言葉にオレは男の顔を見るが、俯いていて表情は伺えなかった。

とりあえずオレは男をソファーに座らせ、自分は奥から丸イスを持ち出して座る。男はフラガのことは知っているらしく、隣に腰を下ろすとそのまま膝を抱えるようにして座った。

「クラスメイトって、こいつが?…まさか」

「キラヤマトだ。そういや姿を見るのは初めてか」

「こいつが、」

言われてオレはキラを見た。しかしキラはぼんやりと窓の外を眺めている。キラヤマトは、確かにオレのクラスメイトだった。しかし、同じクラスになってからというもの一度も学校に来たことがなく、1年の頃キラヤマトと同じクラスだったという友人に尋ねてみたところ、どうやら彼は入学してから一度もこの学校に来たことがないという話なのだ。それなのに毎年留年することなく進級していて、3年生になった今ではもう誰もキラのことなど気にしていなかったのだが。

「だって、一度も学校に、」

「来てるぜ?毎日」

「嘘だ」

「なあ、キラ」

フラガがそう呼びかけると、暫くしてキラは自分が呼ばれたことに気がついたらしく慌ててこちらを向いた。しかし話までは聞こえていなかったようで、何のことかと首を傾げている。そんなキラを見て、ムウは微笑みながらもう一度言う。

「お前、ちゃんと毎日学校来てるよな?」

するとキラは静かに頷いた。しかし本人がそう言ったところで、同じクラスであるオレは一度もキラの姿など見たことがないのに。

「だって教室には、…おい、何やってんだよ!」

オレが叫ぶと同時、ばさばさばさと音がなりばらばらと床に鉛筆が零れた。キラの右手にはカバンが、左手にはスケッチブックが握られている。どうやらカバンからスケッチブックを取り出そうとしたところ、ペンケースまで一緒に出てきてしまい、しかもそのペンケースは開いていたらしく中に入っていた鉛筆が床にこぼれたらしいのだ。

キラはそれを拾おうと手を伸ばすが、ばさりと音が鳴りスケッチブックが床に落ちる。カバンを置き慌ててそれも拾おうとしているらしいのだが、しかし今度はソファーに置いてあったカバンが落ちた。

「そんな不安定なところに置くな!この机を使えばいいだろ!」

オレは傍にあった小さな机をがたがたとずらし、キラのソファーの傍に置く。キラは言われたとおりカバンを拾い机の上にのせ、落とした鉛筆も拾いのせていく。オレがほっと一息ついたところで、またぱらぱらと鉛筆が落ちる音が響いた。

「いいからあんたはもう黙ってろ!」

キラは鉛筆を拾おうとしているらしいのだが、拾った鉛筆をそのまま机の上にのせるから、拾うたびに反対側からまた鉛筆が落ちるという悪循環に陥っているのだ。オレが大声で怒鳴った所為か、キラはしゅんと大人しくなり黙ってソファーに座っている。

オレはてきぱきと床に落ちた鉛筆を拾うと、机の上にあったカバンをソファーの傍に置き、スケッチブックを開いて机にのせると集めた鉛筆もきちんとペンケースに仕舞った。

「いいか、使ったものはちゃんとここに戻すんだぞ。ソファーには置くなよ」

キラはこくりと頷く。オレはスケッチブックと色鉛筆を1本キラに手渡した。するとキラは嬉しそうに窓の外を見て何かを描きはじめる。

漸くオレは一息ついて、丸イスに座った。朝っぱらからどっと疲れてしまった、と思っていたところで、くすくすという笑い声が聞こえ顔をあげる。ずっと傍観していたフラガが笑っていたが、シンは気にしなかった。

「で…何の話だっけ」

「お前、年下の兄弟いるだろ」

「いるけど…なんで」

「いや」

フラガは未だ堪えるように笑っている。オレはキラの方を見た。視線の方向からしてどうやら窓の外の景色を描いているらしいのだが、しかしオレにはそれが何なのかはわからなかった。

「キラは毎日保健室に通ってるんだ」

フラガは静かにそう言った。それなら教室で見かけない説明はつくが、しかしそれでも納得はいかない。

「でも、一度も校内で見たことないぜ。玄関とか、便所とか」

「そりゃ、会わないようにしてるからな。朝は一番早くに来て、一番最後に帰ってく」

「…ふうん」

オレはもう一度キラの方を見た。中学の頃もそういった生徒はクラスにいたが、しかし先刻のキラを見た限りでは、こいつは保健室どころじゃないのではないかと思った。

キラは黙々と絵を描き続けている。流石に前髪が邪魔になったらしく、きちんと分けられ耳にかけられていた。その顔を横から覗いてみると、意外なことにキラの顔はあまり楽しそうではない。

「…それ、なに」

オレが尋ねると、暫くしてキラが振り返った。

「何描いてんの」

もう一度尋ねると、キラは黙って外の町並みを指差す。オレは指された方向とスケッチブックの中を交互に見合わせるが、それが本当に町並みなのかはわからなかった。

「…わかんねぇ」

素直にそう言うと、キラは嬉しそうに少しだけ笑った。あまりに不意打ちだったため、オレは驚いて声が出ない。前髪で隠れていた顔は今はちゃんと現れている。予想通りというべきかやはり整った顔立ちをしていて、オレはつい気恥ずかしくなって顔を逸らす。

すると同時にチャイムが鳴った。朝のホームルームが始まる時間だ。

「おい、教室戻んなくていいのか?」

フラガに言われ、オレは時計を見る。HRはもう始まってしまっているから、どうせ今から教室に向かっても間に合わないだろう。

「腹減った」

「朝飯食ってないのか」

「急いでたんだよ。まだ購買開いてねーし…コンビニ行ってくるかな」

「弁当あるだろ」

「弁当食っちまったら昼飯なくなるだろ。今月食費が厳しくて…」

オレはズボンの後ろのポケットに入っている財布を取り出し、中身を確認する。ざっと見て残り200円、そのうち100円は10円玉をかき集めての金額だ。

「200円であと2週間か…」

「無理だな」

フラガがそう呟くと同時、どさりと音が鳴りオレは慌ててキラの方を見た。ソファーの傍に置いてあったカバンを持ち上げ、机の上に載せた表紙にスケッチブックが落ちたらしい。

「ああ、もう…何やってんだよ」

しかしキラは構わずカバンの中を漁っている。そして中から菓子パンを1つ取り出すと、無言でオレに向かって差し出した。

キラは何も言わず、じっとオレを見ている。

「…オレに?」

オレがそう言うと、キラはこくりと頷いた。

「でもお前、これ昼飯じゃねーの?」

キラはすっかり忘れていたらしく一瞬はっと驚いた顔をしたが、しかしすぐに首を振った。

「…叩いた、お詫びに、」

ぽつりと小さな声でキラが言った。キラの声を聞くのはこれで2度目だ。フラガはとても驚いた顔をして、キラを見ている。オレはどうすれば良いかわからずにフラガの顔を見た。フラガはこくりと頷く。

「ありがとな」

そう言って微笑むと、キラは驚いたようにオレの顔を見た。オレは構わず袋を開き、早速食べ始める。キラはぼんやりとこちらを見ていた。半分分けようかと思ったが、予想外に小さかったパンはすぐになくなってしまった。

「お前、昼飯どうするんだ?」

フラガがキラに問う。するとキラは、カバンの中から財布を取り出しフラガに見せた。買いに行く、と言いたいのだろう。

「でもお前、購買は…まあ、授業終わる前に行けば大丈夫か」

キラはこくりと頷く。オレはぼんやりと2人のやりとりを見ていたが、チャイムが鳴ったので慌てて教室に戻った。


4時間目が始まってまだ間もない時間、オレは保健室の前に来ていた。今朝キラからパンを貰ったのは良いが、あいつが本当に一人で購買に行けたのかどうかが気になったからだ。

保健室の扉を開くと、そこには誰もいなかった。しかし今朝のままソファーの前に置かれた机にはキラのカバンが開けっ放しのままのっているし、フラガが使っているパソコンの電源も入りっぱなしだ。

「おーい…留守か?」

ずかずかと室内に入ると、暫くして足音と共に、カーテンの奥からフラガがやってきた。

「なんだ、また来たのか。まだ授業終わってないだろ」

「なあ、あいつは?」

きょろきょろとあたりを見回すが、やはりキラの姿は見当たらない。カーテンの向こう側はベッドになっているが、その全てを確認したがキラの姿はなかった。

「ああ、キラか?キラならさっき購買にパン買いに行ったけど…そういえば遅いな。もしかして道に迷ってるかもな」

フラガの言葉に、オレは首を傾げる。

「はあ?校内で迷うバカがいるかよ」

「いるんだよ、それが。第一、パン買いに出たのは今から30分は前だからなあ」

フラガがそう言うや否や、オレは急いで保健室を飛び出した。おそらく3時間目の半ばから買いに行ったのだろう。4時間目だとオレのように授業をサボったヤツが購買に行くかもしれないと考えたのだろうか。

誰にも会わずに購買にたどり着いたが、しかしそこにキラの姿はない。きょろきょろとあたりを見回してみたが、キラどころか生徒の姿すら見当たらなかった。

「なあ、茶髪のヤツ来た?」

購買のおばちゃんに尋ねるが、おばちゃんは首を横に振る。

「今日はまだ誰も来てないよ」

「どうも!」

オレは急いで廊下を引き返した。

保健室から購買までは、少し距離がある。といっても生徒の教室は殆ど2,3階にあり、1階は保健室や職員室、科学室などといった特別教室のある階だから、人通りは少なかった。下手に階段でも上らない限り、保健室から購買までの道は1本道だったと思ったのだが。

キラを探しながら走っているうちにまた保健室に戻ってきてしまった。扉を開けて中を覗くが、やはりキラはまだ戻ってきていないようだ。

まさか2階に行ったのだろうか、と考えながらまた購買に向かって走っていると、ふと1階の奥にある、滅多に使われない男子トイレが目に入った。購買や体育館がある建物から校舎のある建物までを繋ぐ廊下にあるそのトイレは、行事がある時以外は滅多に使われることはない。なんとなくオレはそのトイレが気になって、あたりを確認してから静かに扉を開いた。

「おいキラ、いるか?」

静かに中に入る。このトイレに入ったのは1年振りかもしれない。体育館の影となっているので、電気をつけなければとても薄暗い場所だ。

返事はない、が、個室がひとつ使用中となっており、オレは扉をノックした。

「キラ?いるならノックしろ」

そう言って耳をすませていると、こんこんと小さく扉を叩く音が聞こえた。しかし、それ以外の音は何も聞こえない。用をたしているわけではなさそうだ。

「具合悪いのか?」

返事はない。

「イエスなら1回、ノーなら2回ノックしろ。具合悪いのか?」

こつんと扉がなった。

「保健室戻るか?」

こつん、とまた扉が鳴る。どうやら購買に行く途中で具合が悪くなり、トイレに逃げ込んだらしい。

「じゃあ早く扉開けろよ」

オレはそう言うが、しかしいくら待っても扉は開かなかった。

「…キラ?」

呼びかけると、こつんと扉が鳴る。

「出たくないのか?」

今度は扉が2度なった。出たくないわけではないらしい。保健室に戻りたいのに出てこないのは何故なんだろう。オレはふと、今朝フラガが言っていた言葉を思い出した。

キラは今の今まで、誰にも見つかることなく学校に、保健室に通っていたのは多分、誰にも会いたくなかったから、会えなかったからなのではないだろうか。今朝のキラの様子からしても、どうやらこいつは人と交流するのが著しく苦手みたいだから、きっとそうに違いない。

オレはトイレの扉を開き、廊下を覗き込む。まだ授業中なだけあって、廊下には誰もいないし足音も聞こえない。

「大丈夫、誰もいないから」

そう言うと、かちりと音がなり扉の鍵が外された。が、しかしいくら待ってもキラは出てこない。オレは待ちきれなくてそのまま扉を開いた。キラは、具合が悪そうに床に屈みこんでいる。額にはびっしりと汗をかいていて、呼吸も苦しそうだ。

「おい、大丈夫か!?」

「…ごめん、なさい、」

絶え絶えに言うキラに舌打ちをし、オレは急いでキラの腕を抱え立ち上がらせる。

「とりあえず保健室行くぞ!」

キラは静かに頷いて、オレに支えられるようにして保健室まで歩いた。


「おい先生、いるか!?」

ばん、と保健室の扉を開くと、中にいたフラガが驚いた顔でこちらを見た。

「どうした?キラはいたのか?」

「大変なんだよ!」

オレは意識が朦朧としかけているらしいキラを、奥のベッドに運んだ。大分汗は引いたようだが、未だ呼吸は苦しそうだ。

「誰かと会ったのか?」

フラガに尋ねられ、オレは首を振る。

「オレが来たときはもうこんなんだった」

「キラ?大丈夫か?」

フラガが呼びかけるが、キラはいつの間にか眠ってしまったらしく、幾分苦しそうにだが静かに寝息を立てていた。

「…とりあえず、寝かせておくか」

オレは顔に掛かっていたキラの前髪を除けて、フラガに問う。

「なあ、こいつって何なの。他人と会っただけでこうなんの?」

フラガは縦に首を振った。

「オレも詳しくは知らないが…ごく一部の親しい人間以外とは、目が合うだけでも駄目だそうだ」

「誰にも会わずに学校に来るなんて不可能だろ」

「可能さ」

そう言ってフラガはオレの顔を見る。

「少なくとも、今朝お前と会うまでは可能だった」

「確かに今日は早く来すぎたけど…でも、」

もぞもぞと、苦しそうにキラが動いた。オレとフラガは一瞬顔を見合わせてから、カーテンから出てベッドから離れたソファーに移動する。

「オレだって最初は大変だったんだぞ」

フラガは言った。

「4年で漸くほんの少し会話をしてくれるようになって…」

フラガの言葉に、オレは目を丸くする。

「4年!?4年でアレかよ」

「仕方が無いだろ。…意外なのは、キラがお前とは喋れたことなんだよな」

「喋ったって…ほんの少しだろ」

オレは今朝のやり取りを思い出すが、それは決して喋ったとは言い難いものばかりだった。どちらかというと、謝られていることのほうが多いような気がする。しかしフラガは自嘲のような笑みを洩らし、言った。

「オレは返事が返ってくるのに3年かかったんだよ…。まあいい。お前はさっさと教室戻れ」

ふと時計を見てみれば、もうすぐ4時間目も終わってしまう。キラの様子が気になったが、オレはそのまま保健室を出た。






目を覚ますと、そこは保健室の天井だった。

もぞもぞと起き上がり、あたりを見回す。いつの間に眠ったのかはわからないが、やはりここは保健室のベッドの中だった。僕は床に綺麗に並べてある自分の上靴を履き、カーテンの外に出る。

「よお、大丈夫か?」

パソコンの前に座っていたムウさんが、こちらを向いて言った。

「大丈夫です…すみません、」

謝りながら一歩踏み出したところで、寝起きの所為か足に力が入らずにそのままよろけて本棚にぶつかってしまった。

「おいおい、無理ならまだ寝ててもいいんだぜ?」

「いえ、大丈夫です、」

痛む腕を擦りながら、僕はソファーに腰を下ろす。今朝彼が用意してくれた机の上には、色鉛筆が綺麗に並べられている。僕は並べた覚えがないから、きっとムウさんか彼が並べてくれたのだろうか。

彼の名前は未だ知らない。でも彼は、僕のことをキラと呼んでくれた。彼の名を呼びたいとは思わない。この名を呼んでもらえるだけで、僕はもう満足だ。

机の上にはスケッチブックものっていて、そしてその上には見慣れない包みに包まれた弁当箱がひとつのっていた。

「あの…これは、」

僕が弁当箱を指差して尋ねると、ムウさんは思い出したように手を叩いていった。

「あいつが置いてったんだよ。朝飯のお礼だってさ」

「え、でも」

そうしたら、彼の昼食がなくなってしまうのではないだろうか。ふと時計を見ると、もう放課後だ。一体彼はお昼ご飯はどうしたのだろう。僕が首を傾げていると、ムウさんが笑いながら教えてくれた。

「大丈夫、あいつならオレからパン代奪ってったから」

「…すみません、」

「いいから食っちまえ。弁当箱は明日返せば良いそうだし」

「はい」

包みを開き、弁当箱の蓋を開ける。お弁当なんて、本当に久しぶりだ。僕は大好きな卵焼きに手をつけた。

「どうだ?」

「おいしいです」

嘘じゃない。僕は卵焼きは甘い方が好きなので、この卵焼きもとても甘くておいしかった。甘いのに焦げてなくて、これを作った人は凄いと思う。

卵焼きだけじゃなく、他のおかずも全部おいしくて、僕は驚きながらも夢中で食べてしまった。僕のお弁当はいつも冷凍食品ばかりだったけど、このお弁当は全然違っていて、全部手作りのようだ。

くすり、と笑う声がして、僕は顔を上げた。ムウさんが笑っていて、僕は首を傾げる。

「それ、あいつの手作りらしいぞ」

「え!?」

僕は驚いて弁当箱の中身を凝視した。僕は料理が出来ないから、これがどういう風に作られているのかも知らないのだけれど、でもこれが物凄くおいしいということだけはわかる。

「…すごい、」

「お前…うちのコックが泣くぞ」

「すみません」

僕の家にはコックがいて、いつも料理を作ってくれるのだが、どうしても食べる気になれずいつも残してしまうのだ。お弁当も、本当はちゃんと作ってくれると言ってくれるのだが、どうしても僕が食べる気になれず、いつもコンビニの菓子パンですませてしまっている。


弁当箱を丁寧にまた包み、一息ついてグラウンドの外を眺めた。グラウンドでは丁度サッカー部が練習している最中だった。この学校のサッカー部は人数が少ない。僕はサッカーなんてやったことがないから彼らが今何の練習をしているのかはわからないが、部員達は一生懸命ボールを蹴ったり走ったりしていた。

「ああ、ほら、あの10番」

いつの間にか隣に来ていたムウさんが、窓の外、一人の選手を指差す。どうやら試合をしているらしく、背中にはゼッケンがついていた。丁度良く10番が蹴ったボールがゴールに吸い込まれるようにして入り、同じチームであろう部員達が嬉しそうに飛び跳ねている。また各自持ち場に戻り始める中、僕は見知った顔を見つけ驚いた。

「あ、」

10番は、彼だったのだ。

「勿体無いよな。中学じゃあサッカーでいいとこまで行ってたらしいんだが…なんでこんな、人数不足で試合に出れないような高校に来たんだか…」

わあ、と歓声が聞こえ、僕は視線を彼に戻す。どうやらまた彼にボールが回ったようで、ドリブルしながらゴールに向かって走っていた。間もなくそれも、またゴールに吸い込まれていく。

「…すごい、」

ぽつりと呟いたところで、ふと彼がこちらを振り向いた。空気を入れ替えるために窓を開けていたため、気づかれたらしい。彼はここで見ている僕らにも気づいたようで、ぶんぶんとこちらに向かって手を振ってきた。僕はどうすれば良いのかわからずに呆然としていると、ムウさんが窓から身を乗り出して叫ぶ。

「おい!余所見したら、」

がん、と彼の頭にボールが当たり、彼は見事グラウンドに倒れた。


「オレの不注意じゃなくて、蹴ったヤツがノーコンだったんだよ」

「はいはい」

ボールが当たった頭に異常は無かったが、転んだ拍子に膝を擦り剥いてしまったらしく、彼はすぐに保健室にやってきた。

僕はソファーに座ってぼんやりと彼らのやりとりを眺めている。彼は殻になったお弁当箱に気づいたらしく、嬉しそうにこちらを見た。

「お、ちゃんと食ったか。味濃くなかったか?大丈夫?」

僕は黙って頷く。

「そっか」

お礼を言わなければ。けれど、思うように口が開かない。どうしようかとちらりと彼を伺うと、彼はこちらをみてにこりと微笑んだ。

「…あの、」

「ん?」

「お弁当…すごい、おいしかった、」

切れ切れに拙い口調でそう言うと、彼はにやりと笑い。

「オレが作ってるんだから、当たり前だろ」

その台詞がおかしくて、僕はついくすりと笑ってしまった。

「これは名誉なことだぞ。キラのヤツ、屋敷のコックが作った料理は滅多に食べないんだからな」

「だから弁当じゃなくてパンなのか」

僕は頷く。コックには悪いとは思うのだが、でもどうしても食べられないのだ。国によって、食べ物の味付けも違うのだろうか、などということをぼんやりと考えていたら、彼はぽんと手を叩いて言う。

「じゃあオレが弁当作ってきてやろうか」

僕は驚きのあまり言葉が出なかった。そんなことを言われたのは初めてで、どうすれば良いかわからずにムウさんの顔を見る。ムウさんは、彼の方をみてうんうんと頷いていた。

「それは良い提案だな。菓子パンなんかより全然健康的だ」

「2個が3個になっても大差ないし、多い方がいろんなおかずが試せるからさ」

2個、というのは兄弟か誰かの分なのだろうか。確かに彼のお弁当はおいしいし、出来るものなら毎日食べたいくらいなのだけれど、でもそんなこと僕が望んでも良いのだろうか。

「どうする?キラ」

ムウさんに問われるが、僕はどうすれば良いのかわからずにただ首を振った。すると彼が、僕の顔を見て問う。

「美味かったんだろ?弁当」

僕は素直に頷いた。

「じゃあ作ってきてやるから、ちゃんと残さず食えよ!」

「う、うん、」

半ば勢いに押される形で僕が頷くと、彼は嬉しそうに微笑んだ。

「明日の弁当のおかず何にするかな。…なんかリクエストある?」

突然問われ、僕はぶんぶんと首を振った。リクエストなんて、僕はお弁当を作ってもらえるだけでも有難いのに。

「弁当箱は、とりあえずうちに余ってるヤツ使うとして…他になんかあれば言えよ!」

僕は静かに頷いた。


あの後すぐに彼は部活に戻ってしまい、僕はぼんやりと窓の外を眺めている。グラウンドがつかえる時間は限られているらしく、部員達は校舎の中に入ってしまった。

「よかったな、キラ。明日から弁当だぞ」

僕はこくりと頷く。彼にとっては負担意外の何でもないのかもしれないけれど、でも僕はとても嬉しかった。気づかないうちに顔がにやけてしまっていて、ムウさんがくすくすと笑っている。

「今度屋敷に呼んでやれよ。弁当のお礼に温泉にでも入れてやればいい」

僕は頷いた。誰かをあの屋敷に呼ぶなんてことはしたことがなかったけれど、もしかしたら彼ならば呼ぶことが出来るかもしれない。もしかしたら彼ならば、名前を聞くことが出来るかもしれない。

ばたん、と勢いよく扉が開き、突然彼が入ってきた。もう部活は終わったらしく、制服姿に戻っている。

「どうした?」

ムウさんに尋ねられ、彼は笑いながら答える。

「弁当箱忘れてた。これ忘れたら弁当作れない」

そう言って彼は机の上にあがっていた弁当箱をカバンの中に仕舞いこむ。僕もそろそろ帰る時間だから、スケッチブックや色鉛筆を片付け始めた。

「あ、そうだ、キラ」

突然名前を呼ばれ、僕は驚いて顔を上げる。シンが、扉を半分だけ開けた状態で、思い出したように立ち止まりこちらを振り返っている。

「卵焼き、甘いのとしょっぱいの、どっちが好き?」

予想外の質問に驚きながらも僕は、「甘いやつ、」と答えた。シンは「了解」と言って、またぱたぱたと走り去って行った。









やる気があれば続きます。