放課後の廊下は人気がなくしんと静まり返っている。キラは教室の窓からグラウンドの下を眺めた。オレンジ色の夕日が差し込む中、二人の生徒が並んで歩いている。ネクタイの色から察するに、あれは恐らく1年生だろう。赤い髪の少女と、真っ黒な髪をした少年。少年がふと、まるで呼ばれたようにこちらを見上げた。赤い瞳が夕日にあたり、きらきらと耀く。日差しが強いから、おそらくあの位置から教室の中までは見えていないはずだ。けれど、キラは何故か、彼と目が合ったような気がした。
カタンと音がなり振り返ると、クラスメイトのアスランが教室に戻ってきたところだった。今日は入学式だったため部活もなく、キラは久々に幼馴染の親友と一緒に帰ろうと、生徒会長として多忙であるアスランをこの教室で待っていたのだ。彼は窓際の自分の席からカバンを取ると、ふと先刻までキラが眺めていたであろう場所を見た。そこからは、2人の新入生の姿しか見えない。
「どうかしたのか?キラ」
「ねえ、僕のこと、好き?」
突然のキラの質問に、アスランは一瞬戸惑う。だが、キラが突拍子がないのはいつものことで、アスランはすぐに「当たり前だろう」といった。
「そっか」
アスランの答えに満足したのかどうかはわからないが、キラは頷くと教卓に乗せていたカバンを掴み、廊下に出た。アスランは急いでキラを追いかける。
「キラ!」
叫ぶと、廊下に声が少しだけ響いた。キラは立ち止まる。
「職員室、寄らなきゃ」
「オレも行くよ」
「うん、ありがとう」
そう言って微笑んだキラの顔は、いつもと変わらぬものだった。どことなくキラの様子がおかしいと思っていたアスランだったが、気のせいか、と思いなおし、キラのカバンを持つと歩き出した。
次の日の午後。その日は授業自体は午前中で終わり、午後からは新入生のための部活動見学会となっている。廊下には勧誘のポスターが多数貼られており、新入生たちは次はどこに見学に行こうかと楽しそうに相談していた。
キラはそんな人ごみの多い廊下を抜け、暫く歩いた校舎の一番奥の扉を開く。中は常に閑散としており、室内にはキラが歩く足音と、ぱらぱらとページを捲るおと、キーボードを叩く音が響いている。キラは部活動には入っておらず、代わりに図書局員として放課後はいつも司書のラクス・クラインと一緒に本の貸し出しや返却作業を行っている。図書局員はキラ以外には一人もいないが、キラが断るため新しい局員の募集は行っていない。それ以前に、図書局に入ろうという生徒が殆どいなかった。
キラはカバンを置いてカウンターに座る。ふと後ろの窓の外を眺めると、一年生の集団がグラウンドに向かうところが見えた。
「どうかなさいましたか?キラ」
ふわふわとしたピンク色の髪の毛をした、この学校の理事長の娘であり図書館司書のラクスがそっとキラの隣に立ち、キラと同様に窓の下を眺めた。
「別に、なんでもないよ」
「あらあら、新入生ですわね」
ラクスは基本的に図書館から出てこないため、ここにくる生徒以外のことはあまり知らない。学年首席や生徒会役員は会議などで名前が挙がるため知っているだろうけれど、しかし、それでも顔まで知っている生徒というのは殆どいないだろう。同様に、この学校の生徒で、図書館にラクスという司書がいることを知っている生徒も、ほんの一握りにすぎないのだ。
「あの黒髪の方、」
ラクスが指を指した先にいたのは、昨日キラがグラウンドで見かけたあの黒髪の少年だった。周りにいる友人達と、なにやら楽しそうに喋っている。
「あの方が今年度の首席の方ですわね。どの部に入るのでしょう」
ラクスはそう言って楽しそうに首をかしげた。
「アスランのところじゃない?」
キラはぶっきらぼうにそう言うと、窓にかかる薄いカーテンを勢い良く閉めた。アスラン率いる生徒会のメンバーは、その殆どが学年首席で成り立っている。おそらく彼も、教師らに薦められ生徒会に入るに違いない。キラはまるでどうでも良い、というような態度で、カウンターに並ぶ新刊の整理を始めた。
ラクスは閉じられたカーテンを少し開いた。日差しが薄暗い図書室に差し込む。ふと下を見ると、例の少年が睨むような目つきでこちらを見上げていた。
「そうでしょうか」
「え?」
突然のラクスの言葉にキラは首を傾げたが、ラクスはこれ以上は何も言わず、ただにこりと微笑みカウンターに腰掛けた。
閉館時間が近づき、キラは閉館の準備を整え図書室の電気を消すと、読みかけだった本を数冊持って司書室に入る。司書室は図書室の隣に位置していて、中から相互に行き来することが出来る。ラクスは用事があるからといって職員室に行ってしまったため、今この空間にはキラ一人しかいなかった。廊下はしんと静まり返っている。いつのまにか、部活動見学会も終わっていたらしい。
なかなか読書に集中出来ず、あれから30分は経過しているのにまだ数ページしか進んでいない。これ以上読むのは無理だと判断したキラは、近くにあったいらない紙をページに挟みこみ、本を閉じた。ぼんやりと窓の外を眺める。ラクスは何をしているのだろうか、そろそろ戻ってきても良いはずなのだが。キラはある事情のため、孤児院で生活している。本来この歳になれば孤児院を出、一人で生活するのだが、キラが通っている孤児院はラクスと彼女の親戚が経営している場所で、キラはそこを手伝う代わりに無料で下宿させてもらっているのだ。だから行事がある日や午前授業の日以外はいつもラクスと一緒に帰っている。
「遅いな、ラクス」
職員室まで見に行こうか、と思い立ち上がったそのとき、カタンと図書室の方から扉が開く音が聞こえ、キラはそちらに向かった。電気は消えており、窓から差し込む光のお陰でうっすらと人影だけが見える。ラクスは直接司書室に向かってくるから、おそらく生徒だろう。
「もう閉館したんだけど…本の返却?」
キラが人影に向かって尋ねると、人影はゆっくりとこちらに向かいながら、「入部希望なんですけど」と言った。
「え?」
キラは嫌な予感がして、一歩、後退る。そんなキラに構わずその人影はだんだんとこちらに近づき、それにつれてぼんやりと、その顔が見えてきた。キラより少し低い背丈で、入学早々なのにもう着崩している1年生を示す赤い色のネクタイと、薄暗い闇の中でもきらきらと耀く赤い瞳。悪戯が成功した子供のような、そんな楽しくて仕方が無いといった表情。打って変わってキラはというと、驚きと焦りが入り混じったような、複雑な顔をしていた。
「…募集のポスター、出してないんだけど」
苦し紛れにキラがそう言うと、
「まあ、よろしいじゃないですか。さ、こちらに入って」
「ラクス!」
いつの間にか戻ってきていたらしいラクスが、少年の手を引き司書室に招きいれた。いくら図書局員がキラしかいないからといって、最終的な決定権は全てラクスの方にあるのだ。いくらキラが嫌だといったところで、ラクスが少年の入局を認めてしまえばそれが全てなのである。
少年とラクスは司書室内にあるテーブルを挟み向かい合って座っており、キラは少し離れたデスクでパソコンのデータ打ち込み作業を行っていた。ラクスは棚から書類を取り出し、テーブルの上に乗せる。
「図書局に入局することは出来ますが…生徒会に入らなくてもよろしいのですか?」
ラクスは少年に尋ねた。彼は今年度の首席だから、沢山の教師に生徒会に入るよう薦められているはずなのだが。
「別に、入らなきゃいけないってわけじゃないですから。それにオレ、生徒会はガラじゃないっていうか、」
生徒会も図書局も、似たようなモノじゃないのだろうか、とキラは思ったが、口を挟む気はなかったので黙っていた。
「ではここにクラスと名前を書いてくださいな」
綺麗だが少しクセのある字で、彼は言われるままにクラスと名前を記す。
「シン、アスカさん?素敵なお名前ですわね」
にこりとラクスが微笑むと同時、がたんと音を立ててキラが立ち上がった。キラは急いでカバンに荷物を詰めると扉に向かい、振り返らずに言う。
「ラクス、僕ちょっとアスランに用事あるの思い出したから、先行くよ。玄関で待っててくれていいから」
「わかりましたわ」
焦った様子のキラだったが、何も聞かずにラクスは微笑む。バタンと扉が閉じると、ぱたぱたと廊下を走る音が微かに響いた。
「今の方はキラといって、」
「知ってます。キラヤマト先輩ですよね?」
「あら、お知り合いなのですか?」
「はい」
ほんの少し含みのある表情で、シンは静かに微笑んだ。
職員玄関の近くにある階段に、キラは腰掛けていた。ここならば用事を終えた彼と出くわすこともないだろう。アスランに用事があるといったのは、嘘だ。
はあ、と溜息をつくと同時、背後で人の気配を感じキラは振り返る。
「一緒に帰ってるんですか?先生と」
「シン、くん、なんで…」
酷く驚いた様子の顔のキラに、シンは楽しそうに笑った。
「覚えててくれたんですね、オレの名前。すっかり忘れてると思ってました」
階段に腰掛けているキラと同じ目線になるよう、シンは階段を下りるとキラの目の前に立つ。にこりと微笑むシンから目を逸らすように、キラは顔を背けた。
「…そのわざとくさい敬語、やめてくれない?」
「どうして?先輩なんだから当たり前じゃないですか」
「シン!」
キラが怒鳴った。が、それすらも構わず、シンは続ける。
「びっくりした?オレがこの学校に来たこと。せっかく首席で合格したのに、あんた首席じゃないんだもん。どうしちゃったわけ?」
シンはぐいっとキラに顔を近づけて尋ねる。キラは咄嗟に何か言おうとしたが、はっと何かに気づいたように口を噤んだ。その様子にシンの顔が少し険しくなるが、キラは構わず静かに言う。
「どうして図書局に?キミ、本なんて好きじゃないだろ」
「好きだよ」
「嘘つき」
キラは立ち上がると、シンの横を通り、階段を下りた。そのまま立ち去ろうとしたが、ふと何かを思い出したように立ち止まる。てっきり逃げられると思っていたシンは、小さく首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「…もう暗いから、ラクスが家まで送ってってくれるけど、」
くつくつと喉の奥でシンは笑う。どこまでお人よしなのだろう、この人は。さっきだって、あれだけからかったのだから張り手の一つでも飛んでくると思ったのに。あの時からまるでかわらないそれは優しさか、それとも罪悪感か、シンにはわからない。
「オレはいいです。寮なので」
「そう」
そう言うと今度こそキラは立ち去った。
次の日の昼休み、普段ならキラはお弁当を食べた後はすぐに図書室に行くのだが、今日は何故だかアスランの後について生徒会室までやってきていた。忙しなく仕事を続けるアスランを尻目に、窓際のソファーに腰掛けてキラはぼんやりと外を眺めていた。
「ねえ」
「なんだ」
アスランは書類から目を離さずに言う。昨日から少しキラの様子がおかしいが、キラがおかしいのはいつものことだからといって、アスランは大して気にはとめていなかった。
「…なんでもない」
用がないなら呼ぶな、と言わないのは、アスランなりの優しさだった。キラは滅多なことがない限り、悩みを人に打ち明けることはない。だからアスランはキラが今何に対して悩んでいるのかわからないが、その行動によって少しでも気が晴れるなら、返事をひとつ返すくらいなら何度でもしてあげるつもりだった。
コンコンと扉がノックされ、一人の生徒が入ってきた。ネクタイの色は赤く、綺麗な長い金髪にキラは目を奪われる。
「失礼します。この書類なんですが、」
と言いながら書類から顔を上げ、ようやくキラがいることに気づいたらしい。少年はどうしたものかと思案している。キラはソファから立ち上がりかけて言う。
「僕、あっちいってようか?」
「いや、構わない」
アスランのその返事に、少年はまた書類に視線を落とした。アスランが駆け寄り、書類を覗き込む。その様子をキラはぼんやりと眺めていた。
「許可がおりたら各部数配っておいてくれ。あと、この書類に署名も、」
「わかりました、失礼します」
金髪の少年はアスランの指示を受けるとすぐに部屋から出て行ってしまった。綺麗な金髪だったな、なんてことを考えながら、キラは尋ねる。
「今のは?」
「新しく入った一年だ。レイという」
「ふうん」
その後しばらくソファーでぼんやりとしていたキラは、授業開始5分前のチャイムで教室に戻っていった。
放課後、いつものように図書室に来たキラは、カウンターにシンがいることに凄く驚愕した。キラは、シンが図書局に入ったのは単なる嫌がらせのためで、殆ど図書室には来ないと思っていたのだ。シンはカウンターに座り、本の返却処理をしていた。室内にラクスの姿は見えない。おそらく職員室に行っているのだろう。返却処理を終えた生徒がいなくなり、今図書室内にはシンとキラの二人しかいない。
キラはカバンを置くと、ぼんやりとカウンターから少し離れた窓辺に立った。外には帰宅する生徒がちらほらと窺える。
「何見てんですか、手伝ってくださいよ」
昨日の今日だから、てっきり何か嫌味でも言われるのかと思っていたけれど、反してシンは真面目だった。返却された本を抱えてこちらを睨みつけている。
「キミって意外と真面目だね」
そう言うとキラは、シンが持っていた本を全て奪い、本棚に向かう。
「おい、」
「キミ、どこになにがあるか、まだわからないでしょ」
その通りだった。シンはなんとなく悔しい思いをしながらも、ふと先刻キラが眺めていた窓の外を見る。帰宅する生徒の波を反対方向に歩いているのは、生徒会長のアスランザラと、シンの友人でシンの代わりに生徒会に入ることとなったレイの2人だった。シンが聞いた噂だと、キラとアスランは幼馴染で、旧知の仲らしい。気に食わない、と思った。理由はわからないが。
「シン」
遠くで名前を呼ばれ振り返ると、いつの間にか生徒が来ていたらしく、本を持ってカウンターに並んでいた。シンは急いでパソコンを起動させ、貸し出し処理を始める。
「なにやってるの」
返却された本を全て本棚に戻し終えたキラが、少し呆れた顔で言う。
「別に」
そっけないシンの返事に、キラはどうでもよさそうにふうんと応え、手にしていた文庫本を読み始めた。シンがまた窓の下を覗くと、こちらを見上げていたアスランザラと目が合った。