オレが目を覚ますと、部屋の中にはもう彼の姿はなかった。彼の荷物も無く、代わりに数枚の紙幣とこの部屋のキーが机の上に上がっている。オレは即座に状況を理解すると急いで上着を羽織り、しんと静まり返った室内から飛び出た。
「おい!」
玄関の前に彼は静かに立っていた。何をしていたのかはわからないが、今はぼんやりと立ち尽くし海の方を眺めている。
「おはよう、昨日は良く眠れた?」
焦った様子のオレを他所に、彼は静かに尋ねる。
「そうじゃない、そうじゃなくて、…あんた、どこ行く気だよ」
オレがそう問うと、彼は
「迎えが来るから、」
とだけ曖昧に答え微笑んだ。昨日交通整備のおじさんに聞いた話だとまだまだ道路は復旧しないらしいから、迎えが来るとしたら道路の反対側か、空、若しくは海。彼はずっと海岸の方を眺めていたから、きっと迎えは船なのだろう。そんなことを考えながらぜえぜえと肩で息をするオレの頭を、彼はそっと撫でた。
「きみ、まだ泊まるんだよね?ホテルのお金払っておいたから、」
「なんで、」
尋ねるが、キラは曖昧に微笑むだけだ。昨日の夜は上着を汚したお礼だと言っていたが、あれはその後すぐに彼のお金で綺麗に洗濯されている。キラがそこまでしてくれる理由がオレにはわからなかった。だってオレには、彼に優しくされる理由なんてなにひとつ無いのだから。
「でもオレ、あんたに何も返していない」
「いいんだ、気にしないで」
そう言って彼は微笑む。彼はいつも微笑んでばかりだ。いつもいつもとても綺麗に微笑むから、オレはつい何も言えなくなってしまう。ざあざあと風が吹き、木々が揺れる。くしゅん、と彼が小さくくしゃみをした。よく見れば彼はオレが初めて見たときと同じ、上着を何も羽織っていない格好でこんな薄着じゃあくしゃみをして当然だ。オレはふと思いついて自分が着ている上着を脱ぐと、彼の肩に羽織らせた。
「え、これ、」
彼は戸惑った様子でオレの方を見上げる。いつも微笑んでばかりいる彼だから、少しだけ新鮮だ。
「使い古しで悪いけど、やるよ。オレ今こんなもんしか持って無くて、」
優しい彼のことだから受け取ることを拒否すると思ったのだが、幸い彼はすぐに了承してくれて、ありがとうと微笑み上着に袖を通した。
ざあざあと風が吹く。本当はわかっていた。彼の着ているこの白い服が何を意味しているのかも、全て。だけどオレは、それを彼に尋ねることが出来ない。
「どうしたの?」
オレがぼおっと海岸を眺めていたら、彼が俯くオレの顔を覗き込んできた。今ここでにこにこと微笑んでいるこの人は、一体どれほどの仲間を失ったのだろうか。オレが何も答えずにいるため、彼は首を傾げる。
「…あの、あなたの名前、教えてください」
オレがそう尋ねると、彼は一瞬躊躇うがすぐに
「キラ、だよ」
と答え、薄く微笑んだ。キラ。隊長がフリーダムのパイロットに向かって叫んでいた名前と同じ。オレはぐっと拳に力を込める。どうしてここで出会ったのが彼なのだろう。どうしてこの人と、戦場ではないこんな些細な場所で出会ってしまったのか。
「キミの名前は?」
キラに尋ねられ、オレは戸惑った。キラは、オレのことを知っているのだろうか。それとも、あれほどまでに強い力で戦場を支配しているキラだから、オレのことなんて知るわけがないのかもしれない。
「…シン。シン・アスカ」
ぐ、とキラが息を呑んだのが分かった。キラは知っていた、オレのことを。キラの顔を見る。それでもキラは一生懸命微笑んでいて、オレはほんの少しだけ泣きそうになった。
もう会うことはないだろうけどね、といってキラは微笑む。だが明日になればまた戦場でオレ達は出会うのだ。キラだって、それに気づいているはずなのに。オレが何も答えずにいると、キラは少し悲しそうに微笑む。
「戦場じゃない場所で、…キミに会えてよかった」
じゃあね、といってキラは海岸の方へ歩き出した。あの海岸の向こうに何が迎えに来るのか、今なら考えなくてもすぐにわかる。ざあざあと強い風が吹き、波が揺れ雲が流れて青空が広がった。
「キラ!」
オレは叫んだ。振り向かないと思ったが、暫くしてゆっくりとした動作でキラはこちらを向く。
「また、会えるかな、オレたち、戦争が終わったら、」
言いたいことが沢山あって、何を話せば良いのかがわからずにただただ叫んだ。戦場じゃない場所でキラに出会えてよかった。オレは多分、世界のことを何も知らない。戦争のことも知らないし、誰が正しいのかもわからない。けれど、キラと出会えたことでほんの少しだけ、何かがわかったような気がした。
「きっとまた会えるよ」
にこりと微笑みキラは言う。それが本当かどうかはわからないし、オレもキラも明日死んでしまうかもしれない。明日殺しあうかもしれない、けれど、オレとキラが戦場ではないこの場で出会えたことに意味があるのなら、オレはまたフリーダムではなくキラと、出会えるような気がした。